東京都大田区のスーパーエコタウンにある高俊興業の東京臨海エコ・プラント
杉本裕明氏撮影 転載禁止
サーキュラーエコノミー、循環経済、カーボンニュートラル。新しい時代の荒波が、産業界に押し寄せています。これらを満たすための大企業の動きは、サプライチェーンである廃棄物処理業界へも及びます。それにうまく適応する廃棄物処理業者は生き残り、できない業者は消えゆく、業者が選別される厳しい時代が到来しようとしています。そんな時代を生き抜き、さらにビジネスチャンスに結びつけるためには――。
循環経済に向けて業界の先頭を走るリーディングカンパニーの4社を取り上げ、4月末に発刊された「建設廃棄物革命」(杉本裕明著、環境新聞社)から、4社の取り組みを順に紹介しましょう。まずは、建設廃棄物の中で、処理が難しいといわれる混合廃棄物を高精度別する「高俊興業」(東京)です。
ジャーナリスト 杉本裕明
高度選別でリサイクル率は92%
東京大田区城南島にスーパーエコタウンがある。その一角に高俊興業(本社・東京都)が誇る建設廃棄物の選別・リサイクル工場、東京臨海エコ・プラントがある。リサイクル業の10社が進出するが、高俊興業はその第1号で認定、進出した。
燃やして埋めるだけの処理・処分のやり方を排し、素材ごとに細かく分けることで、素材の純度が高まり、価値が生まれ、リサイクル製品や材料として利用できる。そんな高橋俊美会長の熱い思いが詰まったエコ・プラントだ。
東京臨海エコ・プラントの出入り口
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高橋さんが語る。
「建廃(建設廃棄物の略)を扱っているうちに、選別こそ命だと思うようになった。細かく選別するほど再資源化物が増え、燃やしたり埋め立てたりする量が減る」
高俊興業の高精度選別を語る高橋俊美会長
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東京臨海エコ・プラントを訪ねた。工場長自ら案内してくれた。エコタウンに進出した企業のうち、先頭を切って2004年12月に供用を開始した。工場の特徴は何といっても混合廃棄物の高度で精緻(せいち)な選別工程である。高橋さんはこれを高精度選別(高精度選別再資源化システム)と呼んでいる。
東京臨海エコ・プラントの中央操作室。コンピュータ管理されている
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手選別ラインで異物を取り除き、木屑、鉄・非鉄、紙屑など9品目を回収、残った混合物を破砕し、振動風力選別機、ジャンピングスクリーン、比重差選別機などで8品目に選別していく。これらの設備機器は中央操作室で集中管理している。工場長が言った。
「混合廃棄物のリサイクル率は約92%。国が調べた業界の平均値の58%とは格段の差があります。高精度選別機械で何段階も選別して達成しています。これによって本来は埋め立てや焼却に回っていた廃棄物を減らし、再資源化物を増やすことにつながります。いまはリサイクル率96%を目指しています」と語る。
リサイクル率92%の秘密
工場の処理能力は、年83万5,200トン。年間約300日稼働しているので、1日当たり約6,500トンとなる。廃棄物処理法には選別という業種認定がなく、施設で認められた破砕施設は、廃プラスチック類、木屑、廃コンクリートなどに分かれ、混合廃棄物処理能力は1日(24時間)1,470トン、廃プラスチックが同216トン、木屑が240トン、圧縮梱包施設等が858トンとなっている。
ヤードにはひっきりなしに建廃を積んだダンプカーが入ってくる。建廃を積んだトラックは、工場入り口にあるトラックスケールで計量し、重量と積み荷のチェックを受ける。そこから誘導されて工場の中に入る。ダンピングヤードといわれる場所に、誘導員の指示を受けながら、品目ごとに積み荷を降ろす。社員は運転手からマニフェストを受け取り、記載された廃棄物かどうかを確認し、危険物が含まれていないか、点検する。見つかればすぐにそれを取り除く。ダンピングヤードでは次のように品目ごとに分ける。
搬入された廃棄物は、重機と手作業で粗選別される。構内は、整理整頓され、非常にきれいだ
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「回収物として有価物・単品物・破砕不適物」(非塩ビ系廃プラ、塩ビ系廃プラ、塩ビ管、発泡スチロール、大型鉄屑、大型非鉄、ステンレス、木屑、段ボール、電線、廃畳、スプレー缶・バッテリー・消化器・ガスボンベ・塗料缶等の不適物)、「混合廃棄物処理ライン」、「非塩ビ系廃プラスチック類処理ライン」、「塩ビ系廃プラスチック類処理ライン」、「コンクリートがら処理ライン」、「廃石膏ボード処理ライン」、「木屑、紙屑、繊維屑処理ライン」、「蛍光ランプ類処理ライン」の8つあり、「非塩ビ系廃プラ」から「蛍光ランプ類」までの6品目は、品目ごとに専用破砕処理機で処理し、ストックヤードに溜められる。
破砕機は、高速回転式破砕機(衝撃剪断(せんだん)効果で破砕)と、油圧式二軸剪断破砕機(大型の可燃物を破砕)に分かれるが、品目ごとに適合した破砕機を使い、搬出物の精度を上げている。
屋内のストックヤードで選別スタート
この工場のすごいところは、多くを占める混合廃棄物の処理の工程である。処理ラインは複雑で、流れはフロー図を見て説明するしかない。まず、混合廃棄物は受け入れコンベヤから供給コンベヤに移動し、スクリーンを通したあと、手選別ライン(ベルトコンベヤーの脇で社員が分ける)で、7品目(廃プラ、塩ビ、段ボール、木屑、非鉄・鉄、電線、不適物)と磁力選別機で取り除いた鉄を取り除く。
コンベヤを通過した混合廃棄物は、破砕機(ハンマークラッシャー)にかけた後、粗選別機、風力選別機、数種類の磁力選別機を通過し、可燃物はアルミ選別機でアルミと可燃物に。不燃物は、トロンメルを通過し、再び磁力選別機、不燃物精選機をへて、再生砕石(粒径が大きい)と再生砂(粒径が小さい)に。
エコ・プラントの選別過程で粒径ごとに分けられた造成物
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機械選別後の再生砕石には比重の似通った異物が10~15%混入しているために、色彩選別機で、ガラス・レンガ・タイル、硬質プラなどの異物を高精度で回収される。再生砂の一部は、再生砕石を回収した後の混合物から選別したものなので、異物が20~30%混入している。このため、ここでも色彩選別機と近赤外線材質選別機によって木屑、石膏屑、塩ビを除去する。
こうして精度を高めた再生砂と再生砕石が回収できる。また、労働環境や周辺環境に配慮し、一時間に58万立米の集塵能力のあるバグフィルターを設置し、集めた粉塵は再生砂にして再資源化している。こうして工程を経た再生砂や再生砕石は、建設リサイクル資材やセメント工場の原料などに使われる。
そしてヤードに保管されたもののうち、非塩ビ系廃プラはRPFの原料やセメント燃料、塩ビ系廃プラは発電・熱利用燃料に。塩ビ管は専門業者に渡し、塩ビ管に再生される。可燃物(廃プラ・木屑・紙屑の混合体)はセメント原燃料やRPFの原料、発電・熱利用の燃料に。木屑のチップ材はチップ工場に。チップ以外の木屑はセメント工場に。段ボール・紙屑は製紙原料にといった具合だ。最後に残ったものが最終処分場で処分される。複雑な選別作業を繰り返し、再生資源に生まれかわらせる工場は、現代の錬金術と呼んでもいいぐらいだが、高橋さんは言う。
「いや、有価で販売されるものがまだまだ少ない。こうした選別後の再生品などが有価で販売され、需要が増えないと、循環型社会とはいえません」
アパートで産声上げた「高俊興業」
1978年春。中野区にある古ぼけた木造アパート二階のドアに小さな木製の看板が掲げられた。それをまぶしげに、満足そうに眺めている若い夫婦の姿があった。高橋俊美さん、27歳。とみ子さん、30歳。高橋さんは長身ですらっとし、目が大きく、鼻が高い。とみ子さんは小柄で、笑顔がすてきな、しっかりものの姉さん女房だ。
二人の視線の先にある看板には、「有限会社高俊興業」と書かれていた。高橋さんは営業と従業員の管理、さらに自らトラックの運転もする。とみ子さんは、電話番と配車係、経理事務が担当だ。4歳の長男次男の4人が暮らす4畳半と6畳の住居が事務所を兼ねた。
産業廃棄物の収集・運搬会社を立ち上げたのだ。
高橋さんは、開業に合わせて都から産廃の収集・運搬業の許可を得た。高橋の名字の高と、俊美の俊をとって「高俊興業」と名付けた。そして、新聞に「運転手募集」の広告を入れた。さっそく5人から電話があった。
「かあちゃん、まずいな」と高橋さんがとみ子さんに言った。欲しいのは1人だったからだ。社員募集の仕方を知らずに広告を出した高橋さんは、「5人とも来たらどうしよう」と心配になった。だが、肝心の面接日に誰も来なかった。ほっとした高橋さんは、再度募集広告を出した。今度は「先着順」と入れた。この時、すでに子どもが2人いて、長男と次男は幼稚園に通っていた。電話が鳴った。高橋さんが話しかけた。
「本当に明日来るか? 来てくれるなら他の人は断る」。受話器から声がした。「行きます」
こうして運転手が決まった。この社員とは別に、人の紹介で2人を入れた。社長の高橋さんと事務のとみ子さん、運転手3人の、合わせて5人でのスタートだった。
高校卒業し、アルミ製造工場に就職
青森県五所川原市の田畑とりんご園を営む農家に生まれた高橋さんは、六6人兄弟の末っ子。五所川原農林高校を卒業した1969年春、上野行きの夜行列車に乗った。持参したのは夜具と、父の茂作さんが渡した1万円。配属先は昭和電工千葉工場のアルミの製造現場。工場に巨大な溶解槽があった。
鉄の棒で撹拌(かくはん)するが、室内は摂氏50度の高熱地獄。作業は15分が限度である。高橋さんは、先輩の仕事を見ながら、交代して仕事に取り組むが、溶解槽から高温の液体が飛び跳ねる。手袋や作業服につくと、溶け出し、穴があく。「痛い!」。慌てて手袋を脱いだ。津軽弁は周りの人に通じなかった。先輩たちの会話は早口で、よく聞き取れない。初任給の1万3,000円は、翌月の支給日前になくなっていた。
「仕事はきついし、やけどはするし。どうしたもんか」
悩んでいたころ、係長が声をかけてくれた。
「お前は何にも知らない。おれが教えてやるよ」
京都大学大学院卒のその技術者は、週に3回、勤務後に集会室で化学の参考書を片手に講義してくれた。高橋さんは、元素や化学式を必死で覚えた。でも、工場は2年でやめることになった。仕事には慣れたが、同じことを繰り返す単調な生活が、どうしても高橋さんにはなじめなかった。疲れて寮に戻り、1人、ふとんに潜り込むと、ふと疑問がわいてきた。「自分にはもっと違う世界があるんじゃないか」。高橋さんから『やめたいんです』と告げられた係長は、こう諭した。「太陽の下で仕事をしないといけないよ」。
次に見つけた就職先は都内の不動産販売会社だった。慣れない背広を着て、毎日、靴の底をすり減らし家庭を回った。でも、1件も契約が取れない。固定給が安いので、給料日の3日前にはいつも蓄えが底をついた。「高田馬場の木造アパートでね。あんパン1個を3つに分けて、『これは今日、これは明日』と。昼は水道水で飢えを癒やしたんだ」。
「この人を一生大切に」との決意
そんな頃、とみ子さんとめぐりあった。製薬会社の電話交換手。福島県出身で同じ東北出身だ。すぐにうち解けた。仕事の苦労や失敗を語る高橋さんを、いつも笑顔で聞いてくれる。
こんなことがあった。いつものように給料日の3日前に、財布が空になっていた。高橋さんは、とみ子さんからお金を借りて、一緒に定食屋に入った。サンマ定食とビール1本を注文し、コップに注いだ。ビールを飲み干し、そして彼女の顔を見た。
なぜか、途端に涙があふれ出した。彼女に迷惑をかけてばっかりで、とっくにあきれて去ってしまってもおかしくないのに、ずっと支えてくれている。高橋さんは心に誓った。
「このお礼は、どんなことをしてもしなければならない。一生かけて」
ダンプに乗ってお金をこつこつとためた。そして1978年春に有限会社を立ち上げた。3台のダンプの仕事を確保するため、高橋さんは、従業員に車を借りて営業を始めた。工事現場を回り、飛び込みでセールスした。仕事をもらっても、「運転手にどういう教育しているんだ」と怒られることがしばしば起きた。
社員教育の必要性を知った。仕事は確保できてもやがて限界にぶつかる。3台保有していたが、「そんな規模じゃだめだ」と言われることが増えたからだ。そこで1年間で10台まで増やすことを目標にした。買った新車の割賦の支払いが始まる2か月の間に1年分の仕事を確保しないといけない。1日に名刺を20枚配ることを自分に課した。高橋さんは、1980年に積み替え保管施設を手に入れたが、90年代になって契約期間が終わり、千葉県に目を向けた。それが、本格的な選別工場につながっていく。
先に見た東京臨海エコ・プラントはこの市川エコ・プラントの発展系であり、市川エコ・プラントは1998年に完成した。このプラントが稼働する中で、様々な障害を高橋さんと社員らが乗りこえていく。多くの技術と知識の蓄積が、スーパーエコタウンの東京臨海エコ・プラントに結実した。
長男の潤さんが入社し、新たな発展めざす
入社した当時のことを語る高橋潤社長
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市川エコ・プラントが誕生した2年後に長男の潤さんが入社し、父、俊美さんの期待に応え、働きはじめた。俊美さんは、市川市の工場が順調に稼働すると、今度は、東京都大田区の埋立地、城南島に東京都が計画していたスーパーエコタウンへの進出を考えた。その第1号に認可されたのが、2004年12月に竣工した「臨海エコ・プラント」である。
東京臨海エコ・プラントの、混合廃棄物(10万トン)のリサイクル率は、木屑、紙屑、金属屑、繊維屑(畳)が100%、廃プラスチックが87.1%、がれき類・ガラ・陶器類が89.2%。全体では91.9%と非常に高率だ。反対に埋立率は8.1%と少ない。市川エコ・プラントもほぼ同等の数字である。高橋さんは2015年に社長の座を長男の潤さんに譲り、会長になったが、その後も毎日、会社に出勤した。交友範囲は広く、巨大企業の社長らとも私的なつきあいがある。会社の規模に関係なく、その人柄と、技術力が引きつけるのである。
2022年5月に筆者が会った時、高橋さんが言った。
「私は『選別は命だ』と言っています。でも選別は地味な仕事。社員が毎日取り組んでくれているが、何のために選別するのか。選別で何ができるのかきちんと理解しないといけない。理解できないと作業が嫌になってしまいます。当面はリサイクル率96%を目標にし、さらに上を目指したい。メーカーもそのための開発を進めていますが、廃棄物処理の現場を知ることが基本です」
東京都大田区のスーパーエコタウンにある高俊興業の東京臨海エコ・プラント
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病魔がすでに高橋さんを蝕んでいた。入院して14キロの腹水を抜いたばかりで、「歩くのもつらいんだ」と、筆者に打ち明けた。
その4か月後の9月、高橋さんは急逝した。享年72歳。早すぎる死であった。数年前にがんが見つかり、治療を受けながら、会長の仕事を続けていた。切除したがんが肝臓などに転移しての、肝硬変だった。
高橋潤社長が言う。「一人で青森から出てきて、何もないところからのスタートでした。負けず嫌いで、馬力があった。雑草魂と呼んで、大きな壁を一つひとつ乗り越えていきました。責任感が強く、社員をしかることはあっても、ちゃんとフォローし、励ましていました」。
葬儀・告別式で、高橋社長は、自分に言い含めるようにこう結んだ。
「創業の原点に立ち返り、社員一同、一丸となって社業に勤めてまいりたいと思います」
杉本裕明氏の著書「建設廃棄物革命」
建廃の優良企業4社の紹介とともに、建廃の実態と問題点が描かれている
循環経済は、資源をループの輪に乗せ、循環的な利用をすることでなりたっている。高俊興業は、リサイクルできず、埋め立てるしかないと諦めてしまっていた混合廃棄物を資源として捉え、「高精度選別」と、呼ぶ精緻な選別によって、再生資源に戻している。リーディングカンパニーとして、業界を牽引することが期待されている。
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