藤前干潟の向こうに石油コンビナートの煙突が
杉本裕明氏撮影 転載禁止
環境アセスメントの手続きを見ていた環境庁(現環境省)は、名古屋市に、代替地を探すよう文書で求めますが、名古屋市にはそんな気はさらさらありませんでした。環境庁の幹部らは、大臣に一縷(いちる)の望みを託しますが、地元選出の大臣は反対の態度をとることを躊躇(ちゅうちょ)します。しかし、救世主が現れました。環境保全派の大臣に代わったのです。
ジャーナリスト 杉本裕明
環境庁を訪ねた名古屋市の幹部
名古屋市の第2分科会が答申案をまとめた直後の1998年2月、市の環境管理部長と環境影響評価室長が環境庁を訪ねた。答申案を説明するためだった。小林正明環境影響審査室長が尋ねた。
「『環境への影響は明らかである。従って自然環境保全措置を実施すべき』とありますが、じゃあ、具体的にどうするんですか」
室長が言った。
「ここの部分は決まっていないんです」
小林室長が言った。
「いつ決めるんです」
室長が答えた。
「それも決まっていません」
小林室長はあきれた。
「おかしいじゃないですか」
この答申は、名古屋市長に提出され、それを受けて、準備書を審査する側の名古屋市長が、事業を行う名古屋市長 に意見書を出すことになる。だから、環境への影響は明らかであるとした以上、それをどう解決するのか、言わないと意味がないのだ。
稲永ビジターセンターの1階
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しかも、環境への影響を緩和する方策もないまま、市は、干潟を埋め立てるとしていたから、まるで整合性がなかった。
小林室長は、藤前の代替地があるのではないか、と、問いかけたが、室長は「アセスの審査の対象になっていないので検討していません。このまま答申を市長意見として、そのままの形で出します」と言った。
小林室長が所属する企画調整局では、小島企画調整課長、寺田達志環境影響評価課長、小林室長らがこの扱いを議論した。
環境庁が名古屋市と愛知県に公文書送り、指摘
そしてこんな方針を立てた。
「いずれ審査する段階になれば、こちらもはっきり意見をいうことになる。だが、その時になって、相手から『時間がせっぱ詰まっているので検討できません』などと言われたのでは困る。名古屋市が何らの具体策も示すつもりがないなら、事前にどこが審査のポイントかを知らせよう。そうすれば、市も対応策を検討せざるをえなくなるだろう」
3月、審査会が正式に答申を出すのに先立ち、環境庁は、公有水面埋め立て法に基づく環境庁の審査について、環境庁が重要と考えている3つのポイントを示した。
- 渡り鳥の春の追加調査では十分なデータを取り、評価方法を検討し、環境影響評価に反映させる
- 環境保全措置の具体化を図り、その効果と環境影響の検討を早急に行う
- 他の廃棄物処分地の可能性について積極的に関係機関と調整すること
名古屋市の答申が出た3月19日、環境庁の大木浩大臣は、「藤前干潟を含む庄内川、新川、日光川河口部は、我が国有数のシギ・チドリの渡来地であるなど、重要な干潟の1つである。運輸大臣から環境庁長官意見を求められた際に、厳正な審査を行う考えである。今後の環境アセスメントの中で、渡り鳥への影響など、十分な環境アセスが実施されることを期待している」とのコメントを発表した。
藤前干潟は、庄内川と新川、日光川の合流地点に広がっている
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さらに環境庁は、愛知県の環境部長にも、廃棄物処分場の代替地について、早急に具体的な検討を行うことを要請する公文書を送った。だが、名古屋市、愛知県のどちらかの返事はなしのつぶてだった。
諫早湾干潟干拓で存在感示せなかった環境庁
実は、環境省が藤前干潟の保全にこだわるのは、農水省による長崎県での諫早湾干潟の埋め立て事業に対し、環境庁の存在感を示せなかったことによる。
農水省の諫早湾干拓事業は、1952年に食料対策として構想されたのが始まりで、当初は諫早湾全体を締め切ろうというものだった。その後、70年に水資源確保のための長崎南部地域総合開発計画が構想されるが、漁民らの反対で82年に打ちきりに。そこで防災目的も加えた国営諫早湾防災総合干拓事業となり、いまに至っている。「無駄な公共事業」「走り出したら止まらない公共事業」の典型例と言ってもよいだろう。
漁民や市民の反対を押し切って、1997年4月に潮受け堤防を締め切る、いわゆる「ギロチン」が行われた時には、新たな農地確保のための干拓事業はほぼ、存在意義をなくしていたのだろう。国民的な批判が起きたのは当然である。
1991年に農水省が環境アセスメントを行った際、環境庁は、農水省が予想していた楽観的な締め切り後の水質が確保できないことを懸念し、「工事の途中段階で評価をやりなおすべきだ」と意見を述べていた。しかし、それは一顧だにされず、その後、予想を大きく上回る汚染が現出、漁民の不安を増幅させることになる。
農水省による堤防締め切りの強行を、環境省が止められなかったことに、国民の批判の目は、環境庁にも注がれた。
朝日新聞への投稿で厳しい声
これを受け、朝日新聞の声欄に会社員(55歳)の投稿が載った(97年5月29日)。尾瀬の林道開発を止めさせ、希少な湿地を守った環境庁2代目大臣の大石武一さんの功績をたたえた上で、「環境庁は、発足当初からその業務が行政と相いれないことは覚悟の官庁であり、その職種を行使せずに行政執行に『お墨つき』を与えるだけの官庁なら、その存在は弊害であり、ない方がよく、廃止した方がましである」。見出しは「存在意義なし、現在の環境庁」。厳しい指摘は、環境庁への期待の裏返しでもあった。
環境庁の官僚らは、石井道子大臣を現地視察させようと動いた。環境保全の立場から大臣が現地で問題点や懸念を表明し、それを元に環境庁が少しでも関与しようと考えたのだ。
石井大臣が承諾し、長崎県とも日程調整し、知事とも面会する手はずを整えた。ところが、これを知った農水省が動いた。石井大臣から、視察の意向を告げられた藤本孝雄農水大臣は「検討させてほしい」。長崎県選出の久間章生防衛庁長官も「ようやく静かになったのだから」とクギを刺した。
石井大臣は、腰砕けとなり、視察を断念してしまった。なぜ、視察を突然中止したのか。記者会見で、記者たちから問われた大臣は、「諫早から鹿児島まで6時間かかることもあり、また、豪雨もあり、現地の対応が難しいと考え、延期しました」と苦しい言い訳に終始した。
地元選出の大木大臣に期待
それでも、1997年は、環境庁にとって記念すべき年だった。その年の暮れに、気候変動枠組み条約締約国会議(COP3)が京都で開かれ、日本は議長国となり、その会議を外務省とともに担った環境庁の官僚たちは、80年代の冬の時代を経て、新しい地球環境・地球温暖化防止の時代の到来を感じていた。
締約国会議の議長になったのは環境庁の大木浩大臣だった。大木氏は元外務官僚で愛知県選出の参議院議員だった。当然、藤前干潟の保全に向け、動いてくれると、庁内の期待が集まった。官僚たちは、盛んに大木大臣にブリーフィングを繰り返した。
「藤前干潟の埋め立ては環境庁として容認できません。別の代替地を考えるべきです」
大木大臣は、「うん、うん」とうなずくものの、意見を言おうとしなかった。それでも1998年に入ると、大木大臣は、藤前干潟の視察を促す官僚たちの説得を受け入れた。4月11日朝。堤防に市民団体や市、県の職員が多数集まっていた。大木大臣を迎えるためだった。目の前には、藤前干潟が広がる。
藤前干潟に入った大木浩環境大臣を自然保護団体の市民らが取り囲んだ
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午前11時、大木大臣は部下を伴い、岸壁の近くにある名古屋市の焼却施設、南陽工場の会議室に現れた。待ちかまえていた市の環境保全局長と環境事業局長から、埋め立て事業の計画について説明を受けると、外に出て堤防に立った。干出が始まった干潟で、シギとチドリが餌をついばんでいる。大臣は長靴を履いて干潟に下りた。藤前干潟を守る会の代表、辻敦夫さんや、主婦、子どもが長官を囲んだ。
「大臣、藤前干潟には渡り鳥だけでなく、貴重な生物がこんなにいるんですよ」
辻さんが、ゴカイやアナジャコの説明を始めた。
「おー」
大木大臣は、どろんこになりながら、説明を受けている。干潟を媒介し、大臣と辻さんの心が、1つに溶け合ったように見えた。堤防の上では、市の環境事業局の幹部らが心配そうな顔で見つめている。一人が訳知り顔で隣の職員に言った。
藤前干潟の野鳥を見る大木浩環境大臣と、水鳥の説明をする藤前干潟を守る会代表の辻敦夫さん(白のシャツ)
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「大臣が立っているところは、埋め立て予定地からはずれたところなんだ。だからシギがいっぱい来ている。埋めるのは重要でないところなんだよ」
「なるほど。予定地の方にはいませんもんね」
これは当然のことだった。干出が始まるのは、やや高いこの場所から始まり、やがて干出が広がっていく。当たり前の現象だった。
歯切れの悪い記者会見
大木大臣が南陽工場の会議室に戻ると、記者会見が始まった。
「ここは日本でも有数の干潟であることを改めて実感しました。環境庁としてできるだけこれを守りたいというのが基本的な立場です。私どもとしては、できるだけ国、県、市が協力しながらいい結論を見いだしていきたいと考えています」
そばで聞いていた官僚たちは落胆した。実は、その2日前に、大木大臣は想定問答を幹部から示されていた。そこには、「このようなところに貴重な干潟が残っているのは大きな驚きだ。名古屋市はごみ問題への取り組みが必要だ。干潟とごみの2つを両立させるため、市と県は知恵を絞れ。特に県は、広域の地域を管理する立場であり、どう対応するか注目したい」とあり、市にはごみ減量、県には代替地検討を促していた。
大木大臣は、その想定問答を手にしていたが、歯切れの悪い感想を述べるにとどまった。その裏には、前日のできごとがあった。夜、大木長官は、名古屋市の事務所で市議や後援会幹部に取り囲まれていた。「先生、明日の記者会見ではどんなことをいうのか。(ペーパーを)見せていただきたい」。「自分たちで記者会見の発言内容を決めたい」。
関係者によれば、埋め立てをじゃまするなら、選挙の応援をしないとの圧力が暗にあったという。名古屋市議会は、自民党・自民クラブ(24人)、民主党・社民クラブ(17人)、民社・清新クラブ(14人)、公明(12人)、共産党(8人)の構成で、共産党を除く4会派は埋め立て賛成だった。
河村たかし代議士に、環境庁の小島敏郎企画調整課長が声をかけたのは、そのころだった。それまでは、藤前干潟問題は、野鳥を担当する自然保護局が担当していたが、ことがアセスメントの手続きとなり、それを所管する企画庁政局が、この問題に本格的に乗りだそうとしていた。
藤前干潟は野鳥の楽園だ
藤前干潟を守る会提供 転載禁止
河村代議士は、小島課長の要請を受け入れ、活動を始めていた。市長は、藤前フォーラムでこう語った。
「公有水面埋め立て法があって、最後に環境大臣が最後に意見を述べるところがある。しかし、最後ではいかんというもんで、あのとき、新進党がつぶれたころだった。私は自民党に来てくれと言われたが、辻さんは大功労者。銅像建てないかん。最初は鳥のこといわれて、私からみて。はじめは変ななこという人がいるとおもった。干潟にとりがきてなんだとなっていた。でも、それを貫かれました」
「新進党にいて、しばらくして分裂し、無所属になっていました。その状況で最後まで闘おうとなりました。小島さんからは、『自民党をくどいてほしい』くれと言われてね。僕は、名古屋市から出る年間100万トンのごみをどうするかを考え、構成してやりました。(提案した内容について、市は)『河村が言っていることはうそだ』と言って回りました。当時は、埋め立てに反対するのは共産党だけでした。あとはみな、賛成していました。そういう賛成した人たちが、東京に集まって会合をやり、河村の言っていることはうそだと言ったのです」
環境庁とスクラムを組むことになった河村代議士の名古屋と東京の事務所は、藤前干潟保全のための情報収集と、各方面への働きかけで、大忙しとなっていた。
環境庁長官が代わった
7月、参議院選挙で大木氏は落選した。藤前干潟保全のために、アピールすれば、浮動票が見込めただろうに、躊躇したことが仇になったと言えよう。それに代わって、真鍋賢二参議院議員が大臣に就任した。
真鍋氏は、香川県選出で、橋本龍太郎総理から代わった小渕恵三総理に任命され、月末に就任した。真鍋氏は、学生時代に同じ香川県選出の大平正芳氏の依頼を受けて秘書となり、大平氏が首相となって逝去するまで、筆頭格の秘書として、辣腕を振るった。
参議院議員となってからは、大平氏の宏池会の幹部として、通産省はじめ事業官庁に影響力を持っていた。真鍋氏が振り返る。
「藤前干潟の名前が出て、ああ、あの干潟のことかと、思い出しました。実はかなり前に、台風だったか災害があり、愛知県の親しい議員の紹介で、干潟を見たことがあったのです。深掘りされ、被害が出ていたが、そのとき、工場が集中している名古屋港に、こんなところがあったのかと、驚いたのです。環境庁長官になって、名古屋市がごみで埋めたてようとしていると聞き、これは何とかしないといけないか、と、思いました」
藤前干潟を守る会の前身の名古屋港の干潟を守る連絡会のフラッグ
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省庁再編論議と藤前干潟
小渕政権の前の橋本政権の時に、省庁再編論議が進んでいた。環境庁は環境省への昇格を望んだが、事業官庁はそれを嫌った。例えば、通産省は建設省と農水省に話を持ちかけ、環境庁の所管分野を分割し、地球環境と化学物質は通産省、環境アセスメントは建設省、自然環境保全は農水省が取るという案をまとめ、官僚たちが議員会館を回り、政治家に吹聴していた。
追い込まれた環境庁は、それを飲むのか、それとも独自に環境省としてチェックアンドバランスの機能を発揮するのか。庁内で大議論となったが、結局、環境省の独自路線派が優勢となり、決した。その時、巨大事業官庁のチェックをどうするのか、が話題となった。「小さな官庁がどうやって、チェックできるのか」。浮上したのが、環境アセスメントだった。
先に諫早湾干潟のことを紹介したが、そのとき、環境省は「環境アセスで、いうべきことは言った」などと、ひたすら、自己弁護していた。しかし、防戦一方で、存在感は希薄だった。しかも、まもなく、名古屋市の藤前干潟、千葉県の三番瀬干潟の埋め立て問題が、環境アセスメントの場に登場してきた。環境庁のアセスの力量が問われるのである。この時の環境庁の事情を、ある官僚が詳細なリポートにまとめており、こう書かれている。
「最終的には環境行政にはチェックアンドバランスの機能を期待すべきという論調が優勢となってきた。しかしながら、そうは言っても、弱小の官庁に大官庁をチェックできるのかということが新たな問題となってきた。その典型的な例が環境アセスメントということになる。そこで事務次官からもアセスで毅然とした態度をとる必要がある旨が伝達された。ところが、アセス法は(97年に)できても、まだ、完全施行となってはおらず、具体的な案件としては、相変わらず旧制度に基づいてアセスが行われていた」
「ここにおいてアセス担当の力量が問われることになる。このような状況下で、藤前干潟埋め立てのアセスの地元手続きが着々と進行してきた、遅くとも半年後には環境庁に来ることが明らかになっていた。重要案件のアセスは、地元段階から激しい鍔競り合いをしながら国まで上がってくるが、藤前干潟についても名古屋市審議会の段階から、審議会委員への根回し、県から市に対する影響力の行使など、あらゆる手段を双方が講じていた」
環境庁内では、藤前干潟の埋め立てにどの方針で望むか、真剣な議論繰り返されていた。
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