前回に続き、早稲田大学理工学術院・創造理工学部の大河内博教授に伺った、環境問題をご紹介します。
第2回は大河内教授が注力する、富士山頂で行う越境大気汚染の調査です。
大気汚染物質はどこからやってきて、国内にどのような影響を与えているのでしょうか。
富士山は大気の調査に最適な場所?
――大河内教授は富士山で大気汚染に関する調査を行っていると聞いています。なぜ富士山なのでしょうか。
富士山頂に限らず、標高の高い山で観測を行うのは、局地的な発生源の影響を受けていない大気環境を調べることが目的です。1989年に世界気象機関(WMO)が策定した「全球大気監視計画」では世界各地の山に測候所を置き、全球的に大気を監視しています。 ドイツのツーグスピッツェ山、スイスのユングフラウヨッホ山、ハワイのマウナロア山が有名です。
画像提供:早稲田大学創造理工学部環境資源工学科 大河内研究室
しかし、東アジアでは中国のワリガン山のみしかなく、空白域になっていました。富士山は、地理的には日本列島のほぼ中央部に位置していて、世界で大気観測が行われている山に比べると、鉄塔のようにスマートな形状をしており、山体の影響を受けにくいのです。また、富士山頂は自由対流圏高度にあるため周辺の地上からの影響を受けにくいので、バックグラウンド大気の計測が可能なのです。
画像提供:早稲田大学創造理工学部環境資源工学科 大河内研究室
富士山頂であればどこでもよいのかというと、そうではありません。かつて富士山測候所は、東安河原にありましたが、このときは山体の影響を受けていました。
画像提供:早稲田大学創造理工学部環境資源工学科 大河内研究室
これでは適切な気象観測ができないことから富士山頂の西側に位置し、最も高い剣ヶ峰に測候所が移されました。その結果、安定して西風、つまり、偏西風が観測されるようになったのです。
富士山で観測する越境大気汚染
オンラインインタビューを受ける大河内博教授。
――実際に富士山でどのような調査を行っているのでしょうか。
富士山頂は、高度でいうと、だいたい2 km以上の自由対流圏という綺麗な空気層にありますので、バックグラウンド大気を調べています。バックグラウンド大気とは、局地的、地域的、人為的な影響を受けていない”自然”の大気のことです。実際には、まったく人為的な影響を受けていない大気を調べることはできませんので、人為的な影響が小さい大気ということになります。地上でバックグラウンド大気を調べるには、北極や南極、離島、高山になります。
バックグラウンド大気をなぜ調べる必要があるかというと、大気汚染の影響の程度を評価する基準になるからです。自然界に存在していない物質であれば、それが存在していれば汚染と言えますが、多くの物質は自然界に存在していますね。例えば、二酸化炭素は植物も放出しますし、二酸化硫黄は火山からも放出されます。
バックグラウンド大気の濃度をおさえておき、濃度が上昇することがあれば、富士山頂の空気がどこから入ってくるのかを調べてその原因を探っています。富士山頂にある富士山測候所で観測ができるのは夏季のみなのですが、これまで15年間観測を行ってきた結果、大気汚染物質が流入する経路として、偏西風による越境大気汚染、夏季日中の国内大気汚染、対流圏上層/成層圏下層からの下方輸送の3つのパターンがあることが分かってきました。
世界における大気汚染物質の主要な排出地域は、中国やインドを中心とするアジアの国々です。アジア大陸方面から強い偏西風が吹き、その風下に富士山はあります。自由対流圏に大気汚染物質を輸送されると、地球規模で大気汚染を引き起こすことになりますので、大気汚染物質の主要排出源のすぐ風下にあたる富士山頂で自由対流圏大気の観測を行えば、いち早く汚染を検知することができるのです。
これまでに、大陸方向から風が吹くと、酸性物質、水銀、重金属、レアアース、揮発性有機化合物、多環芳香族炭化水素など、さまざまな大気汚染物質の濃度が上昇するとわかってきました。
2019年から大気中マイクロプラスチック(プラスチックは大気も汚染する!大河内博教授に聞く環境問題①を参照)の観測も富士山頂で行っていますが、PM2.5にはさまざまなマイクロプラスチックがかなり含まれていることが分かってきました。ただ、これは一試料だけの結果なので、今年も大気中マイクロプラスチックの観測を行うことを考えていたのですが、残念ながら新型コロナウィルスのために富士山頂での大気観測を断念せざるをえませんでした。来年にはチャレンジしたいと考えています。
画像提供:早稲田大学創造理工学部環境資源工学科 大河内研究室
また、対流圏上層/成層圏下層からの下方輸送があるときにはオゾン濃度が上昇するのですが、航空機の巡航高度がちょうど対流圏と成層圏の界面なので、航空機の排ガスにも注目しています。 観測期間が限られるのでまだ1度だけですが、上空から空気が下りてきたとき、航空機排ガスに含まれている揮発性有機化合物が増加し、同時観測していた富士山麓での濃度よりも高くなるという現象が観測されました。 これは定常的な観測は難しいものですが、航空機排ガスも上空の空気を汚染する原因の1つだと考えています。
夏季における富士山頂での自由対流圏大気で、気をつけなければならないのが日中の観測です。夏の日中、強い日射により山体が温まると、上昇気流が起きます。その結果、上昇が起きた地点の空気が薄くなります。そうすると、より標高の低い麓の空気が上昇して、大気汚染物質が富士山頂まで運ばれてしまうことがあります。
このようなことも踏まえて、自由対流圏大気のバックグラウンド大気の観測や越境大気汚染の解析をしています。
富士山で観測できる越境大気汚染による酸性雨
――富士山で雲を採取している、とお聞きしましたが、これはどういう調査なのでしょうか。
雲粒にはさまざまな物質が溶け込んでいます。含まれる物質によって、雲粒の性質が変わるのです。例えば、界面活性物質、石けんのように水と油を親和させる物質ですが、それが含まれていると、雲粒の表面を覆ってしまって、水蒸気が集まらなくなるので、雲粒がある大きさ以上に成長しにくくなります。そうなると、小さな雲粒がたくさん浮遊して、太陽光も散乱されやすくなり、雨が降りにくくなってしまうのです。
画像提供:早稲田大学創造理工学部環境資源工学科 大河内研究室
地球温暖化の将来予想において、雲は不確定要素になっていますが、雲粒に含まれる物質が気候変動にも影響を与えている可能性があり、雨の降り方や降雨量分布にも影響を及ぼしている可能性があるのです。
しかし、これまで自由対流圏における雲水の化学性状はほとんど調べられていませんでした。地球温暖化の予測精度向上に、富士山頂での雲水化学観測の結果が貢献できればと考えています。
また、雲粒はガスや粒子状のさまざまな大気汚染物質を濃縮する働きがあります。雲が発生していると、地上には太陽光は届きにくいですが、雲の上部には常に太陽光が降り注いでます。その結果、雲は化学反応を起こす場になっているのです。雲が消えれば、生成した物質はガスや粒子として、再び大気に放出されています。
雲水の化学性状を表す基本となるのがpHです。pHはピーエイチとよみ、水素イオン指数と呼ばれ、酸性の強さを示す指標です。標準状態でpH 7が中性、これより低いと酸性、これより高いと塩基性ということは中学や高校の理科で習っていると思います。
大気中には自然界から放出された二酸化炭素が存在しているので、これらが溶け込むと、炭酸という酸ができるのでpH 5.6となります。炭酸飲料やコーラなどが酸性であるのはこのためです。一般に、5.6より低いと酸性雨と呼ばれています。
富士山頂で2006年から雲水の観測を行っていますが、大陸から空気が運ばれてきたときに発生している雲は、pHが低いことがわかりました。 一例として、図には2010年の観測結果を示していますが、太平洋側から空気が運ばれてきたときの雲水はpHが5.6程度であったのに対し、大陸側から空気が運ばれてきたときにはpH 3前後まで低下しました。
画像提供:早稲田大学創造理工学部環境資源工学科 大河内研究室
原因は、中国で排出された二酸化硫黄だと考えられます。中国では石炭燃焼により、大量の二酸化硫黄を排出しています。それが雲に溶け込まれて硫酸となり、日本の上空まで運ばれて降雨となれば、酸性雨として降るのです。
近年は中国における二酸化硫黄の排出量が削減されてきていますので、富士山頂で観測される雲水もpHが上昇傾向にあります。富士山頂で継続して大気観測を行うことによって、このように大気環境の変化を捉えることができるのです。
二酸化硫黄の排出量は減少傾向にありますが、日本における排出量に比べればまだまだ高いですし、そのほかにもさまざまな有害な大気汚染物質も輸送されてきていますので、安心できる状況ではなく、大気環境の常時監視が必要といえます。
早稲田大学・大河内研究室Twitter公式アカウント → https://twitter.com/LabOkochi
大河内 博(おおこうち ひろし)
早稲田大学理工学術院、創造理工学部教授。富士山を用いた越境大気汚染と地球規模汚染の観測、ゲリラ豪雨の生成機構、森林浴効果と森林の大気浄化能の解明に取り組んでいる。著書に「地球・環境・資源:地球と人類の共生を目指して」、「越境大気汚染の物理と化学」、「大気環境の事典」、「東日本大震災と環境汚染」など。医者が人を診断・治療するように、地球を診断・治療するアースドクターを目指す。
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