日本中にあるリユース品が集まる、株式会社浜屋に、また意外なものが持ち込まれました。
それは時代劇で見るような硬貨のようですが…ちょっとサイズが大き目。
どうやらオブジェとしての、寛永通宝(かんえいつうほう)のようです。寛永通宝とはどんな硬貨で、どんな時代に使われていたのでしょうか。
意外なリユース品、寛永通宝のオブジェをご紹介します。
時代劇で見る硬貨を買取!正体は寛永通宝?
株式会社浜屋には、日々多くのリユース品が持ち込まれます。
中には何に使われていたのだろう?と思ってしまうような意外なものも。
今回、浜屋札幌支店に持ち込まれたのは、こちらのオブジェ。
時代劇で見るような古い硬貨で、どうやら寛永通宝と言われるものらしいです。
ただ、実物とは違って、かなり巨大な寛永通宝。
鉄製で重さは2キロ。直径は26センチもあります。
大きさはもちろん、貫禄ある雰囲気ではないでしょうか。これが座敷部屋にでも飾られていたら、少し箔がつくかもしれませんね。
しかし、実際の寛永通宝とは、どのような硬貨で、どんな時代に使われていたのでしょう。
寛永通宝とはどんな硬貨?
寛永通宝とは、江戸時代に使われていた硬貨ですが、卑金属製であるため、厳密には銭貨と言うべきでしょう。
江戸時代の寛永13年、西暦では1636年に創鋳され、幕末まで鋳造されました。
江戸時代の初期は、慶長通宝・元和通宝が使われ、貨幣統一が確立されていませんでした。
しかし、安定的な貨幣供給体制が整い、寛永通宝を中心に貨幣統一。寛永13年の5月5日には、高札を立て、人々に6月1日より寛永通宝を発行することが伝えられています。
また、寛永通宝は1659年までに鋳造されたものを古寛永(こかんえい)、1668年以降に鋳造されたものは新寛永(しんかんえい)と言います。
この二つは製法が異なり、銭文(銭貨に書かれた文字)の書体にも小さな違いがあります。
寛永通宝は1953年に「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」が施行されるまで、法的に通用していました。
寛永通宝が作られた時期はどんな時代?
寛永通宝は江戸時代、1636年から使われるようになりましたが、その頃はどのような時代だったのでしょうか。
江戸時代は1603年から始まり、30年が経過し、寛永通宝が誕生したころ、何が起こっていたのかをご紹介します。
伊達政宗が死没
寛永通宝が登場した、1636年は伊達政宗が死没した年でもあります。
伊達政宗は戦国時代、家督を相続してから、24歳と言う若さで、奥州(現在の福島・宮城・岩手・青森と秋田の一部)で一番の勢力にのし上がり、多くの活躍を見せました。現在でも人気ある武将の一人でしょう。
天下分け目の決戦と言われる、関ヶ原の戦いでは活躍しなかった伊達政宗ですが、同時期に行われた慶長出羽合戦では、上杉景勝と直江兼続、前田慶次という有名武将を相手に勝利しました。
徳川家と豊臣家の最後の決戦である、大阪の陣にも伊達政宗は参加し、あの真田幸村とも激突しています。
戦国時代末期から江戸時代の初期に活躍した、伊達政宗ですが、寛永通宝が発行される直前である、5月24日に亡くなってしまったのです。
島原の乱
日本の歴史上最大規模の一揆と言われる、島原の乱は寛永通宝が登場した翌年、1637年に起こっています。
島原の乱は、江戸幕府による激しいキリスト教弾圧が原因でした。
天草四郎を中心とし、キリスト教弾圧に苦しんだ農民たちが戦いますが、幕府軍に敗れ、多くの死者を出してしまいます。
その後、幕府はキリスト教に対し、さらに厳しく処罰を行い、外国との関係を断つ、鎖国政策を開始します。
また、島原の乱で人々を率いた天草四郎は、豊臣秀吉の孫である、という都市伝説もありますが、信憑性は低いようです。
寛永の大飢饉
寛永通宝が登場した1636年から4年後、1640年に寛永の大飢饉が起こります。
寛永の大飢饉のきっかけは、九州で発生した牛疫が西日本に拡大して、牛が大量死したことでした。
さらに、蝦夷駒ケ岳の噴火によって東北地方の凶作や、東日本の冷害と自然災害で不作が重なり、全国的な飢饉へと発展します。
社会不安も大きくなり、幕府は様々な対策を講じ、その後の政治方針も大きく転換する必要性に迫られました。
寛永通宝の他にもリユースしよう!
株式会社浜屋では、使わなくなった品物を集め、海外へリユースします。
不用品として集まった品物も、海外で再び活躍することがほとんどです。それは、地球の資源を無駄にせず、環境への負荷を抑えることにもつながります。
そのため、不用になってしまったものが出てきても、一度リユースすることを考えてみましょう。
もし、不用品について困ったことがあれば、ぜひ浜屋までご相談ください。
寛永通宝のオブジェの他にも、ちょっと変わったものでも、歓迎いたします。
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