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廃棄物処理施設建設の是非を住民投票で問うた御前崎市(静岡県)と御嵩町(岐阜県)の顛末(下)

岐阜県御嵩町では、民間業者による最終処分場の建設計画に町がいったん容認し、協定書まで交わしたが、その後、町長が替わり反対に転じた。1997年に設置の是非を問う住民投票が実施され、投票者の8割が反対した。その後膠着(こうちゃく)状態に陥り、県と町、業者が話し合いの末、業者が「白紙撤回」を表明して決着した。

御嵩町の住民投票は、当時、全国で起きていた廃棄物処理施設の建設に反対していた自治体や住民の応援になったが、一方で処理施設の建設がますます困難になるというジレンマにも陥った。

ジャーナリスト 杉本裕明

目次

木曽川のそばに計画


小和沢地区は手入れがされず、草が生い茂っていた。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

御嵩町役場から車で北東に5キロ進むと木曽川に出る。川添いのくねった細い道を歩くと、小和沢地区に出た。かつての水田や畑は雑草に覆われている。手付金と補償金を得て立ち退いた10軒のうち数件が戻っている。

産業廃棄物の処理施設を計画した寿和工業(岐阜県可児市、現フィルテック)がこの一帯200ヘクタールを買収したが、計画が白紙になってから県に無償譲渡し、木曽川に近い一部は地権者に戻されているという。町は使い道を検討しているが、名案は浮かばないままだ。

寿和工業が買収すると決まったのは1991年9月。自治会長と全戸移転の覚書を交わし、各戸に手付金を払った。同社の計画書を見ると、御嵩町事業として1~3期の事業が描かれている。1期事業は小和沢の隣の大久後地区での水処理施設を持つ準管理型と呼ぶ安定型処分場がすでにあった。この事業計画は小和沢地区に14ヘクタールの管理型最終処分場、焼却施設(80トン炉2基)、中和・脱水施設、破砕施設などを整備するとし、総面積は約40ヘクタール。将来的には最終処分場の拡大(30ヘクタール)、焼成施設、廃プラスチックリサイクル施設、メタンガスの回収・発電施設などを想定したが、県に対する許可の申請手続きは最初の40ヘクタール分だった。

寿和工業が小和沢を選んだのは「埋め立てに適した大きな沢があり、中心市街地をトラックで走ることなく運べる」(元幹部)という地の利。後に問題にされる木曽川に接近していることや一部が国定公園の特別地域にかかっていたが、「水処理施設などの環境対策を徹底すること、水処理施設を設置する予定の国定公園の特別地域は、景観に配慮した構造にして対応できると考えていた」(同)という。

同社は、小和沢の住民の一軒一軒を説得し、自治会の同意も取り付けた。元々この地区は過疎が進み、同社の示した好条件を飲むことになった。


寿和工業が最終処分場を計画した岐阜県御嵩町の小和沢地区。古ぼけた集会所が残っていた。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

町が正式に計画を知ったのは91年夏。清水正靖会長が平井儀男町長を訪ねた。計画を伝えると、町長は「処分場なんてとんでもない」と難色を示したが、同社は、翌月10戸の住民と覚書を交わし、土地利用計画法に基づき、土地売買の手続きを始める時に必要な届出書を県に提出、県土地開発要綱に基づく事前協議の手続きに入った。

最初町は反対した

当時の町の幹部は「近くの農園跡地に名古屋の下水汚泥を搬入して埋め立てる計画があり、住民が反対していた。ゴルフ場開発も盛んで農薬による環境汚染が問題になっていた時期で、公害が起きないか警戒していた」と振り返る。

町は92年10月、土地売買の手続きについて、
▽下流に水道の取水設備があり、水質汚染が心配
▽自然公園の特別地域が含まれる
とし、「不適当な施設と考える」との意見書を県に出した。

県は廃棄物処理施設の設置について許認可権を持ち、事業計画の審査をするのが役目だ。しかし、県内には処理施設が不足し、岐阜県内で発生した大量の廃棄物が県外に搬出され、持ち込まれた県から問題視されていた。

県は流域下水道計画を全国の先頭に立って進めていたが、処理施設で発生した汚泥の処理先に頭を痛めていた。県は寿和工業の新しい処分場をその汚泥の有力な処理先の一つと考えた。

産業廃棄物施設に関する指導要綱は、事業者が土地を買収し、そこに設置する場合は、土地開発要綱に基づく売買の届け出前の事前協議が終わってから、「産業廃棄物の適正処理に関する指導要綱」で定めた事前協議に入ることになっていた。しかし、この件では効率的に進めるために両方の事前協議を同時並行で進めた。環境庁(現環境省)が94年に国立、国定公園内の廃棄物処理施設の設置を禁止する通知を都道府県に出していたが、岐阜県だけは、市町村に周知するのを1年延長。実際の適用をさらに1年延ばす異例の措置をとった。こうした措置が後に御嵩町民の「公平であるべき許可権者の県が推進で動いている」との不信感を招くことになる。

「やむを得ない」

梶原拓知事は建設省の元官僚で、89年に知事に就任した人だ。公共事業に熱心で、流域下水道の普及を進めた。木曽川右岸流域下水道は岐阜市はじめ4市6町が対象で、御嵩町も含まれる。下水処理施設は下流の各務原市に造ることが決まったが、猛烈な反対運動が起き、発生した下水汚泥の処理を行わないことになった。しかし、流域下水道の人口は現在46万6,200人、年に発生する脱水汚泥は約3万5,000トンに達する。処理は多治見市にある寿和工業の処分場で処分されており、県は新処理施設に期待をかけた。


フィルテック(旧寿和工業)が創業する岐阜県多治見市にある最終処分場。安全に配慮し、様々な対策が講じられていた。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

この間の事情を県の元幹部は「岐阜県に進出した工場から排出された産業廃棄物の多くは当時、県外で処理され、自分の県で処理するべきだとなった。下水汚泥の受け入れ先の確保も重要だった。この課題を解決するには最終処分場を造るしかなかった」と語る。

県は、県と国が公共関与で安全性を高めたり、地元に還元施設を造ったりして建設を促進しようとした。

御嵩町では、92年に平井町政に不満を持つ自営業者らが「みたけ未来21」を結成した。町長候補探しをしながら、メンバーたちが注目したのが、処理施設の建設計画。92年1月に朝日新聞に処分場計画のことが報道されたのを機に、新聞記事の内容を書いたビラを配り、92年暮れに町議会に処理場建設反対の請願を行った。扱いに困った議会は、あいまいな「趣旨採択」という結論に落ち着いた。

地球環境村で町を支援

一方、県は公共関与の形として「地球環境村」構想を打ち出した。県内を幾つかの区域に分けて、それぞれ産廃処理施設を設置し、県が公共施設の設置などの支援を行うというものだ。

迷惑施設を受け入れる自治体にメリットを与えることができる。その当時、国は産業廃棄物処理特定施設整備促進法を制定し、適用を受けた地元に公共事業が優先配分されたり、事業者が低利融資を受けたりする優遇措置ができるようにして、不足する処理施設を建設しようと動いていた。

岐阜県はその法律の適用第1号にしようと考えていた。「地球環境村」構想は、県内を4つの区域に分け、それぞれ新たに処理施設を受け入れた市町村の対象区域を「地球環境村」に指定し、地元にメリットを与えようと考えていた。「地球環境村」の第1号が御嵩町のはずだった。

「地球環境村」の指定を巡って町が要望していたのが「福祉の里」という老人ホームを主体とした総合的な老人福祉施設。約50億円の事業費を想定。通常約10億円しか補助金が出ず、40億円は町の起債と一般財源からまかなわねばならない。しかし、人口2万人足らずの町にとって負担が大きい。そこで県に「地球環境村」の事業として認めてもらい、さらに県が支援を強化してくれるよう要望を続けた。県は、立ち入り調査の強化や水質の児童監視装置の導入などの公害面のチェックや対策に万全を図ることと、「福祉の里」の予定地を「地球環境村」に指定し、より支援を上乗せすると約束した。一方、町は寿和工業とも協議を重ね、公害対策の強化とともに、10年間で35億円の協力金(うち10億円は福祉の里への協力金で、残りは町の振興目的)を得る協定を結んだ。

これらの内容は、議会にも示され、承諾を得た。ある元町議は「本当に公害が出ないのか、みんなで処理施設を視察して回った。京都府の処分場ではその周囲に水田が広がり、汚染もなかった」。こうして町は95年2月、「事業をやむを得ないものと考えます」と同意書を県に提出した。

梶原知事VS柳川町長

95年春に町長に就任したのが元NHK記者の柳川喜郎さん。母の義父が町長だった縁で、みたけ未来21に説得されて出馬した。処理施設について賛否を示さなかったが、夏の町議選で処理施設反対の議員が次々と当選し過半数を占めると、処理施設に反対の姿勢を明確にした。

引退後、名古屋市に居を移した柳川さんは、かつて「寿和工業と町が交わした協定書の存在を地元の新聞が書き、これは大変だと思った。段ボール6箱に詰め込まれた関連の資料を読み、問題点をまとめて県にただした」と述べている。町長に就任してすぐにこの問題の検討に着手したようだ。

96年2月、柳川町長は水質汚染の可能性などを指摘する「疑問と懸念」を県に提出した。「処分場の予定地は木曽川のそば、4キロ下流に水道水の取水口がある。木曽川は名古屋市はじめ下流の300万人以上の飲み水を供給し、地震などで処分場から有害物質が流れ出せば大変なことになる。また県の手続きにも幾つかの疑問があったり、事業者の資質にも問題があったりする」と指摘した。木曽川下流にあたる名古屋の市民グループが町内の反対グループに呼応し、水源を守れという運動を起こした。町内に女性のグループもできた。その有力メンバーは「何事も町民の知らないところで決まっていた。名古屋などの下流地域の住民から飲み水が汚染されたら困ると懸念の声が高まり、連帯して運動を起こすことになった」と語る。


木曽川にある丸山ダムは嵩上げする新丸山ダムの工事が進む。最終処分予定地は右側の手前の地区だった。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

柳川町長の誕生と、町議選で処分場に反対の立場の議員が多数当選し、多数派を占め、「柳川与党」になったことで、県の思惑は大きく狂う。

県は「疑問と懸念」に驚いた。従来は、事前に県と町の担当部局が質問と回答の内容についてすりあわせを行い、調整した上で町長名で質問書を出し、県知事の名前で回答文が出る。町と県にとってはその間の調整が事実上の「協議」に当たる。しかし、柳川さんはそのルールに従わず、いきなり「疑問と懸念」をぶつけた。これは県を驚かせることになった。

こうなると県も「協議」なしでの回答書を送付となり、いわば「空中戦」となった。町と県の代表者が胸襟を開いて話し合うことはなくなり、文書で相手の欠陥やミスをお互いあげつらうことになった。

進展のないことに業を煮やした県は検討委員会を設置し、そこで解決法を含む議論を始めた。しかし、柳川町長はその議論に乗らず、問題点を指摘し続けた。県は寿和工業の計画のうち国定公園の土地を外した案を「調整試案」として公表し、公共関与を高めた形で沈静化を図ろうとした。しかし、それは町長が襲撃され、瀕死の重傷を負うという事件が起き、事態は急展開する。

襲撃事件から住民投票へ


柳川町長が暴漢に襲われたマンション(岐阜県御嵩町)。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

1996年10月30日夕方、柳川町長が自宅のマンションの通路で何者かに襲撃され、瀕死の重傷を負った。頭蓋骨が陥没骨折し、肋骨が3本折れていた。柳川町長が産廃処分場に反対していたため、産廃問題との関連が疑われた。11月10日に町民大会が開かれ、公民館は800人の町民で埋めつくされた。

暴力追放のアピールを全員で読み上げた。町では産廃処分場の建設の是非を問う住民投票条例の制定に向け、産廃反対派の住民を中心に案が練られていた。条例案を書いたのが自営業の田中保さん。新潟県巻町で原発誘致の是非を問う住民投票を参考に条例案を書き、直接請求の代表者になった。97年1月、町議会は18人中12人が、住民の直接請求した条例案に賛成した。田中さんのもとには嫌がらせの電話やはがきがきたが、代表者になった誇りと意思を貫いた。

この数年間、町での紛争を知った右翼団体や暴力団、有象無象の利権屋が町に入り込んでいた。町議会を傍聴して町長に会わせろとすごんだり、反対に寿和工業に押しかけたり。処分場計画に反対したり、賛成したり。そんな中で、寿和工業の清水会長が、お金をせびりに来た右翼団体の構成員に、社長の知らない間に巨額の資金を貸し付けてしまった。その後その構成員が柳川町長の自宅の電話を盗聴し、逮捕される事件に発展した。襲撃事件が産廃絡みと報道されるに至り、寿和工業は、契約がキャンセルになったり、社員の子どもが嫌がらせを受けたり。大きな痛手を被った。

96年6月22日の住民投票の結果は投票率87.5%。建設反対が79.65%、賛成が18.75%と、町民は産廃施設に「NO!」の判断を下した。

業者提案の三者会談で解決

住民投票が県に厳しい結果をもたらすと、県は介入を中止し、柳川町長も自ら解決に動こうとはしなかった。県と町の対立は続き、宙ぶらりんの状態が続いた。

以来10年。解決に向けて動いたのは寿和工業だった。

会長が亡くなり、会社を建て直した息子の清水道雄社長は、県と町と話し合う公の場を持って解決の道を探ろうと決断した。当時、清水社長は筆者にこう語っている。「違法に手続きを進めたわけでもないのに襲撃事件との関係を疑われ、町長には悪徳業者のように言われていた。会社と従業員の名誉を回復したい。処分場をあきらめたわけじゃないが、住民と対立してまで造ろうとは思わない」

梶原氏に替わり知事に就任したばかりの古田肇氏も解決を求めて柳川町長に接触したが、いったん中断していた。それが清水社長の提案で息を吹き返した。

柳川町長が引退を決め、代替わりの候補が確定した時期になって、県は3者会談を提唱、07年4月に実現した。その後、柳川さんから替わった渡辺公夫新町長との3者会談が続き、08年3月に寿和工業が処分場建設の許可申請を取り下げることが決まった。県が「97年に出した県の調整案を(同社が)受け入れながら、県が長期間放置したことを反省する」と寿和工業に陳謝し、町は「予定地の活用について積極的に協力する」とした。

合意文書には①3者が襲撃事件の真相解明を求める②すべての関係者の名誉が回復されるべきだとすることが明記された。マスコミなどから襲撃事件との関連を疑われた同社は名誉の回復を果たすと、県に提出していたすべての届けを取り下げ、土地は県に無償譲渡された。

住民投票は住民の意思を示す一つの手法だが、専門家による調査や評価はほとんどされず、下流の水質汚染の心配ばかりが問題にされた。もちろん、水源を守ろうという考えは大切だが、「海のない内陸の自治体にとってはどこにも造れなくなる」(専門家)との指摘もある。

御嵩町ではその後、別の業者による処理施設の計画が浮上したこともあるが、町と町民が反発し、計画が消えたこともある。ある住民は「かつての住民投票で設置が阻止されたね、と住民の間で話題になる」と話す。賛否をめぐって町内を二分した住民投票は20年以上立っても影響力を持っているように思われる。

処理施設の候補地の選定方法をめぐっては、柳川さんが提唱したように選定の基準をつくり、それに基づいて複数の候補地を絞り、合意形成を図りながら立地を決めるという方法がある。しかし、筆者の取材経験によると、失敗例が多いようだ。あるいは、見かけ上複数案が提示されても、すでに本命は決まっているケースも多い。

民意と処理施設の設置の「相克」は今後も続くのだろうか。

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この記事を書いた人

朝日新聞記者を経て、フリージャーナリスト。廃棄物、自然保護、地球環境、公害など、環境の各分野に精通する。著書に『ルポ にっぽんのごみ』(岩波書店)『ディーゼル車に未来はあるかー排ガス偽装とPM2・5の脅威』(同、共著)、『環境省の大罪』(PHP研究所)、『赤い土(フェロシルト) なぜ企業犯罪は繰り返されたのか』(風媒社)、『社会を変えた情報公開―ドキュメント・市民オンブズマン』(花伝社)など多数。NPO法人未来舎代表理事として、政策提言や講演会などをしている。

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