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もう一つの「太陽」を見た第五福竜丸――広島・長崎の後に起きたビキニ水爆実験の被曝漁船は、東京・夢の島にいた(下)

杉本裕明氏撮影 転載禁止

前回に引き続き、西太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカの水爆実験に巻き込まれた、第五福竜丸についてご紹介します。

前回の記事
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目次

第五福竜丸の乗組員が語った

「証言・私の昭和史」⑥巻に三國一郎さんが船員らにインタビューした内容が記録されている。テレビ番組「私の昭和史」は、三國さんのインタビュアーとしての力量を見せつけた番組だった。それをまとめた文庫本に第五福竜丸事件が掲載されている。

こんなくだりがある。

――いわゆる死の灰をかぶられたそのときの状況はいかがでしたでしょうか。
見崎吉男漁労長「私たち漁師がいわゆる『東の海』というこの付近を航海していまして、もうだいたい日本へ帰るんだということで、西へ向かっていたとき、被曝したのですが――」

――キノコ雲が見えましたか?
「3月1日の夜明け10分前くらい、私が天体観測でもって船の測定をしておりました。ちょうどそのとき、私の右の半面の方から、突如として南海のうす暗い大空が黄色く赤い、そういう色でもって一面彩られたんですね。それで私は非常な危機感と恐怖感につつまれたのですがね」

――原爆か水爆か、そういうものの実験があるということはわかっていたんですね。
「いいえ、全然わかっていなかったのです」

――全然わかっていない?
「昔、ビキニよりさらに西方の島では実験区域ではあったし、そこではやっておったと。終戦直後1,2年の間はビキニ島でやったですがねえ、その後ビキニの実験場は解除されまして、その後も7年も8年も解除されたままの区域だとそう解釈しておったわけですね。それがあまり突然のことであり、しかし、直感的にやったなと、これは異常な事態であると、しまったなと、そういう強い気がしました」

――死の灰が降ってきたのはそのだいぶあとですか。
「ええ、それから3時間後です」

――すぐに(実験のことを知らせる)打電されたわけですか。
「いや、しませんでした」

――どうしてですか。
「これはあとで大きな問題になりまして、第五福竜丸はなぜ打電しなかったのかと各方面から意見を聞かれましたが、当時われわれとしては非常に微妙な問題があったわけです。

――微妙な問題と申しますと?
「実験を行ったのはアメリカである、そしてわれわれが航海しているこの海はほとんどアメリカの海に等しいという感覚、日本は敗れて以来日本という小さな国とそれをとりまく3マイル以内の海しかなかったということから、われわれは常にアメリカの海ということを意識していたから、この実験はいうまでもなくアメリカのものであると。この実験はわれわれの予想もしなかった重大な実験ではなかろうかという判断のもとに、打電はいましばらく控えた方がいいのじゃなかろうかという、いろいろな判断によってついに打電しなかったのです」

読売新聞のスクープ記事が世界を揺るがした


杉本裕明氏撮影 転載禁止

3月14日あけがた、第五福竜丸は焼津港に帰港した。乗組員はその日、焼津協立病院で診察を受けた。医師の診断で症状の重い2人は東大病院に入院することになった。そして、「急性放射能症」に診断されたが、これらの事実は隠されていた。

その事実をスクープしたのが読売新聞だった。3月16日付朝刊で、「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」「23人が原子病」の大見出しをつけ、社会面トップで報じた。筆者は焼津通信局長の安部光恭記者。三國さんのインタビューにこう答えている。

「(下宿に電話すると)たいへんだ、福竜丸の人たちが原爆にやられた、といきなり、こういう電話なんです。福竜丸の所属会社の富士水産という会社がありまして、そこの総務部長が私の下宿に『安部君に知らせてやってくれ』とわざわざ連絡してくれたんです。(島田市に殺人事件の取材できていたが)タクシーを飛ばして下宿へとびました。下宿の前の旅館には総務部長が待っていてくれまして、その方から概略を聞き、総務部長の部下の総務課長の自宅を訪れ、航海日誌を見せてもらいました」

――安部さん、本社のデスクの方は、どうだったんですか。
「当夜の社会部のデスクがですね。前の社会部長の辻本芳雄さん以下、そのころ我が社で『ついに太陽をとらえた』という原子力の連載ものをやっていましたが、そのときのスタッフだったわけです。運のいいことに」
「そこでその第一報を受けまして、すぐ東大病院へ村尾清一さんがとんで、そこで死の灰ということが――」

――死の灰という言葉はそのとき。
「そのとき生まれました」

――しかし、このトップを飾ったけど、新聞社としてもただ特ダネとしてこれを扱っただけではいけない、社会的大問題ということにもなるんでしょうねえ。
「ええ、それで12時ごろでしょうか、静岡支局のデスクから電話がございまして、『君、これはたいへんな問題なんだ。患者はどうしているんだ、乗組員はどうしているんだ』『町に出てます』『マグロはどうした』『まだそのままになっています』『すぐなんらかの措置をこうじて、乗組員を一か所に集めろ。マグロも出荷させてはならない』こういう指令があったんです。『事は人命問題に関するから特ダネ意識は捨てろ』ということで、私もすぐに警察署長に電話したわけです」


水爆実験で第五福竜丸が被曝したことを特報した読売新聞(1954年3月16日付社会面)。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

スクープ記事は世界中に大きな衝撃を与えた。船体と水揚げしたマグロから強い放射能が検出され、築地市場のセリが止まった。この事件は、国民の間に広島、長崎の記憶をまざまざとよみがえらせることになった。27日、焼津市議会は原水爆禁止決議を行うと、全国の市町村、道府県にひろがっていった。主婦を中心に署名活動が行われ、杉並区では「杉並アピール」にもとづく署名活動が起きるなど、大きなうねりとなって、原水禁平和運動に結びついていく。

廃船の運命たどる第五福竜丸


杉本裕明氏撮影 転載禁止

読売新聞のスクープで表に出た死の灰の恐怖。翌17日にアリソン中日大使が外務省を訪ね、乗組員の治療を申し出るが、同時に、船を放置しておくことは日米友好上看過できないと、不満を伝えた。そして米軍の駐留する横須賀に回航させるよう伝えていた(『第五福竜丸は航海中』より)。

水爆の秘密を保持したい米国は、福竜丸の汚染除去を米軍にさせるか、海中に沈めるか、立ち入りを防ぐかをすること、米国の技術者にも患者を診させたいといった介入が始まった。

3月31日には、国会に物理学者の朝永振一郎氏、武谷三男氏ら3人が参考人として呼ばれ、広島、長崎の被害との比較や乗組員の様態などが明らかにされると、米側は「第五福竜丸は警告を無視した不注意」(ストローズ米原子力委員長)といらだちを隠せない。

挙句の果ては「日本漁夫たちが水爆実験をスパイしていたとも考えられる」(米議会上下院合同原子力委員会のコール議長、同著より)。スパイ視された乗組員たちの心情はいかばかりか。

乗組員や関係者、関係業界が被った被害に対し、米側は200万ドルが法的責任を伴わない慰謝料として政府に払った。
こんな被害を受けながら乗組員たちは、広島・長崎の被爆者の持つ被爆者健康手帳の取得を許されなかった。結局、政府は治療費と慰謝料、傷病手当金として計約8,000万円を支払ったにすぎなかった。

第五福竜丸は水産大学の研究資料にされたのち、実習船「はやぶさ丸」となったが、1967年に廃船処分された。スクラップ業者が買い取り、エンジンは別の貨物船に売却、船体は夢の島に放置された。

一通の投書が社会を動かした


ビキニ環礁で被爆した第五福竜丸(展示館のパネル)。
杉本裕明氏撮影 転載禁止

それが、ひっくり返ったのは1968年3月10日に朝日新聞の声欄に掲載された一通の投書だった。「沈めてよいか第五福竜丸」と題し、保存を訴えていた。

投書の主は武藤宏一さん。26歳の会社員だった。
「第五福竜丸。それは私たち日本人にとって忘れることのできない船。決して忘れられることのできない船。決して忘れてはいけないあかし。知らない人には、心から告げよう。忘れかけている人には、そっと思い起こさせよう。いまから14年前の3月1日。太平洋のビキニ環礁。そこで何が起きたかを。そして、沈痛な気持ちで告げよう。いま、そのあかしがどこにあるのかを」

「東京湾にあるゴミ捨て場。人呼んで『夢の島』にこのあかしはある。それは白一色に塗りつぶされ、船名も変えられ、廃船としての運命にたえている。しかも、それは夢の島に隣接した15号埋め立て地に、やがて沈められようとしている。だれもが、このあかしを忘れかけている間に。第五福竜丸。もう一度、私たちはこの船の名を告げ合おう。そして、忘れかけている私たちのあかしを取りもどそう。原爆ドームを守った私たちの力で、この船を守ろう」

「いま、すぐに私たちは語り合おう。このあかしを保存する方法について。平和を願う私たちの心を一つにするきっかけとして」

この訴えは多くの読者の心をとらえ、保存を願う声が新聞社に殺到した。美濃部亮吉東京都知事が保存協力を表明し、募金活動が始まった。

3月27日付の朝日新聞は、三國さんがインタビューした漁労長の見崎さんが夢の島に係留された第五福竜丸と対面したことを伝えている。

杉本裕明氏撮影 転載禁止

見崎さんはこう語っている。
「この船は人間でいえば七〇か八〇の年寄りだ。やはり休ませて船乗りの気持ちとしてはゆっくり休ませてやりたい気もする。でもこの船を保存したいという日本人の気持ちもこれまた正しいよね。私としては保存運動が広島や長崎の被害者たちと対比して進められることを祈ります」

こうした人々と世論の後押しを受けて、69年夏に原水禁運動の関係者や文化人らによって「第五福竜丸保存委員会」が発足した。1947年に進水した船は、76年に完成した「第五福竜丸展示館」に展示され、その命をながらえることになったのである。
1985年には痛んだ船体の保存工事が行われ、さらに98年にも補修工事がなされ、大切に保存されている。

久保山すずさんの死と未来の子どもたち

筆者が初めて展示館を訪ねたのは1993年秋。開館以来来訪者が200万人を超えたころだった。その頃、久保山さんの妻のすずさんが亡くなり、焼津市であった告別式に筆者も参列させてもらっていた。

72歳で亡くなったすずさんは、夫が死去したあと、子どもたちを育てながら、平和運動の担い手として原水爆禁止世界大会で演説したり、多くの人たちに体験を語りつづけてきた。大石さんと並ぶ重要な語り部だった。

愛吉さんの命日にあたるその月に2人を偲んで集いがあった。そこではこんな句が披露された。

すずさんの生涯石榴(ザクロ)は雨衝く紅(森洋)
傘が聴くすずさんのこと湾の冷え(石川貞夫)
野の花のその死の重さ碑が濡れて(田中千恵子)

こうした多くの犠牲者の思いを抱きながら第五福竜丸は生き続けている。

筆者が尋ねたこの春、ある写真展が開かれていた。太平洋核被災支援センターの副代表、岡村啓佐さんが撮った船員たちの写真だった。

実はビキニの水爆実験で被曝したのは、福竜丸だけではなかった。のべ992隻が1954年までに汚染された魚を廃棄していた。つまり被曝したということだ。しかし、福竜丸以外では、健康調査はされなかった。廃棄したうちもっとも多いのが高知県の船で270隻あった。

魚が売れなくなるためか、人々は実情を語ろうとしなかった。真実は闇に葬られそうになっていたが、80年代に高知県の高校生たちが調査を始めた。それに触発されて、元船員や遺族が労災保険の適用を申請し、国家賠償請求訴訟を起こしたこともあった。

高知市に住む岡村さんは元船員を訪ね歩き、写真集を出版している。この写真展を紹介した朝日新聞都内版(2月25日)の記事の中で、岡村さんはこう語っている。

「核被害はなかったことにされ、体を調べてほしかったと憤る人もいれば、被爆者であることを隠しながら生きてきた人もいた。そういう人たちの声を届けたかった」

なお、未解決の問題が多いが、それでも展示されたその漁師たちの顔は、みな見事なまでにたくましい海の男である。そして何かを訴えているようにも映る。

展示館の入り口に旗が掲げてあった。赤字に白抜きで「大祝漁第五福竜丸」。そばで第五福竜丸がそれを懐かしむように、静かに横たわっている。


杉本裕明氏撮影 転載禁止

参考・引用文献
第五福竜丸は航海中-ビキニ水爆被災事件と被ばく漁船60年の記録(公益財団法人第五福竜丸平和協会)
証言・私の昭和史⑥(三國一郎、旺文社)
朝日新聞東京本社都内版(1993年10月3日)

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この記事を書いた人

朝日新聞記者を経て、フリージャーナリスト。廃棄物、自然保護、地球環境、公害など、環境の各分野に精通する。著書に『ルポ にっぽんのごみ』(岩波書店)『ディーゼル車に未来はあるかー排ガス偽装とPM2・5の脅威』(同、共著)、『環境省の大罪』(PHP研究所)、『赤い土(フェロシルト) なぜ企業犯罪は繰り返されたのか』(風媒社)、『社会を変えた情報公開―ドキュメント・市民オンブズマン』(花伝社)など多数。NPO法人未来舎代表理事として、政策提言や講演会などをしている。

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