日本自然保護協会は日本の自然保護団体の中でも、大きな規模と長い歴史があることで知られています。その協会で40年近く活動してこられた横山隆一氏に、朝日新聞の元記者のジャーナリスト、杉本裕明氏がインタビューし、日本の自然保護の歴史を語っていただきました。
日本自然保護協会は、本州最大の湿原である尾瀬ケ原にダムを造る計画に対して反対した生物学者や登山家らが1949年に結成した「尾瀬保存期成同盟」をその前身とする、日本で初めて誕生した自然保護団体です。51年に日本自然保護協会の名称になり、現在、公益財団法人として自然保護活動、保全のための研究、環境教育などに取り組んでいます。
協会がまだ小さかった頃に職員になった横山氏は、その協会が力を蓄え、国も一目置く存在となるまでの歴史とともに歩んでこられました。貴重な証言を三回に分けて紹介します。
第一回は、横山氏が1982年に協会に入ったきっかけから、80年代に起きた、世界遺産として知られる白神山地の原生林を伐採し、林道を通す計画と、沖縄・石垣島の珊瑚礁の浅瀬を埋めて空港を作る計画、という二つの開発計画に、いかに協会が立ち向かったのかをお聞きします。
当時は6人だった自然保護協会
杉本:横山さんと協会との出会いはどんなふうだったのですか。
横山:私は東京農業大学の近くに住んでいて、高校から大学まで農大に通っていました。高校時代に生物部に入り、その顧問が尾瀬の保護運動をしていた関係から、自然保護協会に出入りするようになりました。大学を卒業した年から農大の隣にある第一高等学校の生物の教員になりました。当時の自然保護協会は、地域で自然保護活動をするナチュラリスト、「自然観察指導員」を育てようとしていました。教育と研究、保護活動をトータルでできる人を必要としていたのです。
私は大学の頃から普及委員として、自然保護協会の活動に参加していました。自然観察指導員を育てるための講習会にも講師として呼ばれていました。高校の教員になってからもこの事業の運営に携わっていたのですが、「そのまま職員にならないか」とスカウトされ、決心しました。1982年のことですが、教員になってわずか一年二カ月、学期の途中だったことから大変な迷惑をかけ、学校からずいぶん怒られたことを覚えています。
杉本:協会に入って、まずどんなことから始めたのでしょうか。
横山:最初は自然観察指導員の養成講習会の全国展開の企画でした。指導員を養成するために一年間のプログラムを作って、それを動かすこと。それまでは講師として呼ばれていたのですが、今度は企画する側になったわけです。都道府県庁や各地の自然保護団体に声をかけて、講習会をやらないかとオファーを出し、応えてくれたところと、具体的にどうやって進めるかを話し合って決めました。年間で15回くらいやりましたか。
杉本:自然観察指導員の養成が大事だったのですね。
横山:その頃は、自然保護の市民団体などは全く存在しない地域がたくさんありました。もちろん、開発側を批判する団体はありましたが、その組織の足場が自然環境の上になかったり、目的が少し異なる運動ばかりだったと思います。また、自然や生き物が好きな愛好家グループに科学的な自然保護意識を持ち、地域社会に対して発言して頂きたかったので、そういった人たちの連絡会を作ることも目的でした。
そして、地域で一目置かれる視点を持ち、地道な普及活動を長く続けて頂くために本も作りました。FGS(フィールドガイドシリーズ)という自然観察指導員に対するフィールドマニュアル、自然観察のハンドブックです。危険な生物を見分ける方法や、小さな子どもと自然観察する方法、からだの不自由の人たちと一緒に自然を楽しむ方法などをマニュアル化し、10冊ほど出版しました。講習会で地域指導員と協会会員を増やし、連絡会を作って地域運動を作り、その人たちに本を買ってもらう。これで自分たちの給料や全体の運営費を賄っていました。寄付金だけで運営をするのは難しかったのです。そうして徐々に職員を増やしていきました
杉本:その頃、協会はそんなに大きな組織でなかった。
横山:職員は6人です。今は30人ですから、かなり増えましたね。
青秋林道の建設はなぜ止まったのか
杉本:横山さんが協会に入った翌年の1983年に、青森県と秋田県にまたがる白神山地で、ブナ林を伐採して青秋林道を造る計画が大きな問題になります。
横山:この問題の発端は、70年代に東北地方で同時進行していたブナ自然林を大伐採する拡大造林政策への抵抗事業でした。青森営林局と秋田営林局がブナの原生林を伐採し、経済的に価値の高いスギの人工林に置き換えるという、林野庁が主導し、全国で行われた「拡大造林」が猛威を振るっていた時期にあたります。
その頃は、新潟県と山形県の県境地域の朝日連峰などで、県と県を結ぶ大規模林道など、自然林を伐採するための林道をつくる計画が次々と起こっていました。この計画は、将来的に東北全域に林道網を作り、極端に言えば原生林を人工林に全て置き換えてしまいかねないものでした。この一環として出てきたのが広域基幹林道と呼ばれる県知事の要請で作る林道があり、その一つが青秋林道でした。青秋林道がブナの原生林の中心部に向かって周囲の森を伐りながら伸びていく姿は、東北全域で起こっている問題の象徴とも言える現場でした。青森と秋田を結ぶ林道だから、青秋林道、これともう一つ赤石川林道を作って白神山地のおよそ4万ヘクタールにも及ぶブナ原生林をスギの植林地に変えようとする計画だったわけです。
この計画に、秋田・青森の東北地方の自然保護団体が抵抗しようとしていました。私たちも、この社会運動の応援とブナ自然林の公益的な価値の訴えをしたいと考えていたので、秋田県でブナ林の価値をめぐってのシンポジウムや東北各地で自然観察指導員講習会を開いて仲間を増やし、83年からこの林道計画を止め、ブナ林の価値を見直すための活動を開始しました。
あらゆるメディアに協力を求めてブナ自然林の公益的な価値を広め、保護地域化するための新たな制度の導入を国に提言しました。こうした訴えが社会の関心を引きよせ、林道の開削と大規模なブナ原生林の伐採は中止され、国民の財産である国有林の管理と利用の方針そのものが見直されることになりました。
白神山地は、後に林野庁が、原生的な生態系を守る「森林生態系保護地域」を保護林制度の中に新設し、知床や屋久島と共に1990年に指定しました。92年には環境庁(現環境省)によって自然環境保全法に基づく「自然環境保護地域」にも指定され、翌年の93年には中核部の約17000ヘクタールがユネスコの世界自然遺産に登録されることになりました。
こうしてこの運動は、林野庁の拡大造林政策だけでなく、国有林の果たす役割の大転換と国際基準に基づいた保護地域づくりにつながりました。この運動の中で新設された「森林生態系保護地域」も、現在、全国に31カ所、70万ヘクタールが存在します。後でお話しする沖縄本島のやんばる地域もその一つとなりました。
埋め立てから守られた沖縄・石垣島の白保サンゴ礁生態系
杉本:沖縄と言えば、80年代の後半になると、沖縄・石垣島に、新石垣空港を造る計画が持ち上がります。珊瑚礁が広がる、島の東側の浅瀬を埋め立てるというのだから、とんでもない計画です。
横山:そうですね。1987年頃、この石垣島・白保のサンゴ礁池の埋め立て問題が入ってきました。私たちはこれを、健全なサンゴ礁池(ラグーン)の生態系の価値の日本社会への普及と、環境アセスメントの欠陥の改善の観点から問題にしました。沖縄県が白保地区の浅いサンゴ礁池を埋め立てて新空港を建設したいというのですが、建設予定地は、多くの造礁サンゴによってつくられた浅瀬、ラグーンで、まるで竜宮城のような美しい姿を奇跡的に残していたところでした。
戦後の陸地の開発やオニヒトデの食害によって、県内各地で礁池の自然が壊滅状態にあるにも関わらず、健全な礁池を埋め立てて空港をつくるというのです。その場所の自然の価値が正当に評価されていないという点では、今話題になっている同じ沖縄県の辺野古と同じような状況です。健全なサンゴ礁生態系を守るために、白神山地と並行してこの問題に取り組むことになりました。
どう活動したらよいか、方法を模索して浮かんだのが、県が行う環境アセスメントのクロスチェックでした。大規模開発事業を行う際には、環境影響の事前予測評価と言って、計画が環境へ影響がないか調査を行い、準備書を作成、学識経験者や住民の意見を聞いて保全措置を講じたり、開発計画を変更したり、させたりする仕組みがあります。日本で法制化されるのはもう少し先ですが、欧米では以前から導入され、自然保護と環境保全の有力なツールとなっていました。沖縄県はアセスメントを行い、88年にコンサルタント業者に作らせた準備書を公表しました。そこで私たちは、正しく評価されているかどうか、内容をチェックすることにしました。
杉本:最初の環境アセスメントは86年に準備書ができますが、あまりのひどさに、環境庁が調査のやり直しを求めました。それを改善して予測し直した準備書だったのですが。
横山:私たちがやったのは、それだけにとどまりませんでした。実際にコンサルタント業者がやったのと同じ調査をして、準備書にその場の自然の状態が正しく書かれているか、クロスチェックすることにしました。この調査は、日本自然保護協会も加盟しているIUCN(国際自然保護連合)の造礁サンゴの研究者やWWFJ(世界自然保護基金日本委員会)と協力して行いました。
その結果、サンゴ群落の評価が低かったり、工事による濁水が生じてもサンゴ珊瑚に与える影響がないと書かれていてもその根拠が示されていなかったり、空港が与える潮流の変化の予測手法が間違っていたりし、準備書の内容の再現性が低く、環境への悪影響が明らかでした。
ところで、当時の日本人は造礁サンゴが何かを知りませんでした。サンゴと言えば、宝石の珊瑚しか見たことがない。そこでサンゴが何なのかを知ってもらおうと、新聞やテレビに呼びかけ、協力してもらうことにしました。また、美しく大きな群体を作る造礁サンゴの映像やカラー冊子をつくったりして、多くの人に造礁サンゴ群落の存在と沖縄で起きている問題を知ってもらえるように努めたのです。
この活動が功を奏したのか、空港計画は、振り出しに戻り、幾度の建設場所を選び直し、いまの陸上に造る空港になりました。造礁サンゴ群落が広がる珊瑚の海が埋め立てられることはありませんでした。
横山隆一氏のプロフィール
日本自然保護協会参与。89年保護部部長、2000年から2014年まで理事。猛禽類の専門家で、環境省、林野庁など国の検討会の委員などを歴任。日本イヌワシ研究会副会長、奥利根自然センターの代表も務める。近く、昭和の終わりから平成にかけての自然保護運動の成果と方法論をまとめた「NGOが作った平成の自然保護運動(仮題)」の刊行が予定されている。
杉本裕明氏のプロフィール
朝日新聞元記者。環境分野全般に精通し、著書に「にっぽんのごみ」(岩波新書)、「環境省の大罪」(PHP研究所)、「赤い土・フェロシルト―なぜ企業犯罪は繰り返されたのか」(風媒社)、「環境犯罪―七つの事件簿(ファイル)から」(同)など多数。NPO法人未来舎代表理事として、講演活動などもこなす。
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