武蔵野ecoリゾートから2階の通路からクリーンセンターに行ける
杉本裕明氏撮影 転載禁止
引き続き、東京都武蔵野市のごみ焼却施設、クリーンセンター建設をめぐる市民参加の動きを追う。対立から融和へ、そしてまち作りへと発展した。迷惑施設だった焼却施設は、まちづくりのシンボルとなった。
ジャーナリスト 杉本裕明
白熱する議論
「会議はすべて公開します。炉が建つか建たないか始めましょう」
79年12月、初の委員会は内藤さんのこの宣言で始まった。寄本さんが行政法の専門家なら、内藤さんはごみ処理技術の専門家だ。
この頃は、ストーカー炉が中心になっているが、その前から海外の焼却技術の導入も含めて、この世界で大きな功績を残した。しかも、環境アセスメントにも精通し、武蔵野市が、内藤さんを頼ったのも、なるほどと思わせるような人選だった。
10カ月間、26回に及んだ会議は、まず密室性を排するところから始まった。それでこそ市民に信頼され、合意形成ができる–。そんな意気込みがみんなに伝わった。
まず、要綱の解釈、委員会の位置づけといった解釈論をめぐってさまざまな意見が噴出した。専門委員と市民の間に知識の差が大きく、最初の2か月は専門委員が講師になって勉強会を続けた。内藤さんが環境アセス、寄本がごみ処理の歴史という具合に専門委員たちが講義を分担した。
こうした基本的知識を身につけてから、すべての委員が意見を述べた。もちろん、自己主張を繰り返す人がいれば、ほとんど発言しない人もいた。しかし、4回に分けて、すべての委員に個人的な意見を出してもらった。
その結果、3割以上が「行政に怠慢あり」、「用地選定が先」、「公有地と話し合いを望む」。2割以上が「あるべき姿が先」「市民参加に意義がある」「プール地は不適」とし、行政への不信感を示す結果となった。
会議の難しさ
この審議の難しさを、内藤さんはこう述べている。
「本題の討議が始まると、専門委員の独壇場となる。技術論争だけに終始すれば、決着は早い。しかし、そこにイデオロギー論争を加えながら未解決の技術に批判を加え始めると時間がかかる」
「例えば、いま、周辺住民の一人が『現在の焼却工場建設の技術をもってすれば、周辺住民の健康障害は全く起きないと言えるのか』と詰問したとしよう。良心的な技術者なら、『99%保証できるが、100%と言われると』と答えるに違いない。そう答える方が技術者の良心に恥じないと思うからである」
「しかし、これでは結論にならない。建設に反対する者は、たとえわずかな確率とは申せ、1%の危険性を激しく追及するだろう。そして議論は空転することになる」(『ごみと住民 武蔵野市における実践』環境産業新聞社)
武蔵野ecoリゾートの内部は配管がむき出しになっていた
杉本裕明氏撮影 転載禁止
技術に絶対というものはない。原発がそうであるように。100%安全、無公害などというものはない。しかし、内藤さんの言う通り、住民に尋ねられたら、追及を恐れて「100%安全です」と言い張るだろう。もし、「100%ではない」と言えば、「危険だと認めた」と、反対運動に火をつけることになりかねない。いまも、幾つもの紛争現場で、このようなやりとりが繰り返されている。
内藤さんは、現行の基準があればそれを認め、環境への影響問題と分けて考えたらどうか、と提案した。委員会は、内藤さんのもと、委員による意見表明が終わると、客観的で科学的、公平な評価ができるような評価方法の検討を始めた。過去のいきさつやしがらみ、政治的な思惑を排除しようとした。それでこそ本当の腹を割った話し合いができ、合意点が生まれる。
公平で科学的な議論
委員会に作業小委員会が設置され、議論が始まった。評価項目として、
- 地域からみたときどのような計画がつくれるのか、
- 建物によって地域はどのような変化を受けるか、
- 環境への影響はどの程度か、
などの観点から、評価すべき項目をあげて、各委員に4候補地を5段階評価してもらった。
こうした審議の裏で、市は、都に対し、都立公園を予定地として使えないか打診していた。美濃部亮吉知事は理解を示した。しかし、都の担当部局は、「公園をごみ焼却場にするなどとんでもない」と受けつけなかった。委員らが4候補地を評価すると、この都の公園予定地が最も高い評価となっていた。にもかかわらず、実現可能性はゼロに近かったのである。
最終段階になって、藤本市長が委員会に出席し、市の事情を漏らした。「都の公園用地2カ所は不可能です」。委員らは、「それならなぜ、候補地に入れたのか」と猛反発した。
結局、委員会がまとめた報告書は、「各項目にわたって検討したが、最適地として合意に達した用地は得られなかった」と結論づけた。そして4カ所について、委員たちが点数化して評価した内容を示した。
それによると、市が当初候補地とした市営プール地は、面積が狭い、候補地として適当ではないと真っ先に退けられていた。一方、都立公園の2カ所は、広さなどの環境では問題ないが、すでに利用計画が決まっていたりして制約が大きかった。残った市役所隣の総合グラウンドは、都立公園の2カ所に次ぐ条件で、候補地にすることが不可能ではない、としていた。
公平を保つ
明確ではないが、よく読むと、総合グラウンドを候補地と押していることが読みとれる書きぶりである。しかし、焼却施設が自分の家の近くに立つことを、だれも望んではいない。会議の途中、ある委員は「そんな案なら、自治会に帰れない」と訴えた。
最後の委員会は、午後1時から始まってから延々と議論が続き、合意したのは翌日の午前3時だった。終了が宣言されると、委員と、傍聴していた市民、市議会議員らから拍手がわき起こった。握手をしあい、お互いをたたえた。ただ、総合グラウンドの周辺住民の一部委員は「この結論を拒否し、さらに強く反対運動をする」と表明した。
内藤さんは、振り返ってこう言う。
「報告書には一切、行政の手が入らなかった。またそうでなかったら市民は信用してくれなかっただろう。報告書づくりでは、現場で何が起きているのかを重視する現場主義を心がけた」
まちづくり委員会へ
この報告書をもとに、市は住民団体と折衝し、同意書作りを始めた。当時の市の担当者によると、ごみ処理施設の建設で厚生省の補助金を得るためには、予定地周辺の自治会の同意書をとることを同省が求めていたという。いまは、同意を許可条件にすれば廃棄物処理法違反になるのでやめるようにという通達を、国が出している。
総合グラウンドの予定地の周辺には3つの自治会・団体があった。
特別委員会の審議のなかで、緑町の自治会は、意見の相違から、5丁目の団地自治会と3丁目自治会の2つに分裂した。地主を中心とする3丁目自治会は、反対の姿勢を崩さず、同意書にも名を連ねなかった。
3月8日、市役所の市長公室で同意書の署名が始まった。プール地に近い北町の住民の「武蔵野市のゴミ問題を考える連絡会」と緑町団地自治会の2団体が印を押したのは、9日の午前2時であった。
団地自治会を代表して出席した石黒愛子さんはいう。
「団地自治会では建設計画に市民参加できるなら同意すると決まり、団地の人々から一任されていた。連絡会はいろんな住民の意見を聞いて来ているから、簡単には判が押せなかった。私たちも、その気持ちを考えたら、早くとはいえなかった」
こうして連絡会と団地自治会が計画を承諾した。
同意書づくりの話し合いで、周辺のまちづくり、施設の建設と運営に関することを話し合う「クリーンセンターまちづくり委員会」を設置することが決まった。
場所が決まれば、こんどはどんな町づくりをするのか、町にフィットした処理施設にするため、議論し決めていかねばならない。専門家や市民代表、行政側代表も交えて、施設の規模や設備の内容、煙突の高さから色まで決めた。そして、焼却施設が完成したら運営委員会を立ち上げ、立ち入り調査を行い、データは委員会に開示させることなどを、こと細かく決めた。
委員が求めた「参加と合意」
連絡会の清水さんは、先の本でこう述べる。
「(行政と)住民との話し合いは表も裏もない真剣なものでなければならない。なぜなら参加と合意は地方自治の本質的な問題であるからである。また、住民運動の片側からみれば、運動のリーダーとなっている人たちが、闘争を好むのか、平和的に解決することを好むのかによっても運動の性格が違ってくる。刻々と変わる状況の中で選択は難しい。リーダーは、柔軟な心をもち、あるいは自分も成長しながら判断していかなければならない」
この「まちづくり委員会」の委員長には、寄本さんが選ばれた。寄本さんは筆者にこう語った。
「市民たちが送別会を開いてくれた。住民団体側代表でなく、意見対立を裁き、そしてまとめる役目になる。だからもう個別の接触はできないと。市民は偉かった。議論をまとめるのは大変な労力を必要としたが、またやりがいもあった」
寄本さんは、あえて市民団体と個人的な接触を断った。武蔵野市の市民参加は、住民の意見が通ればいいということではない。情報を公開し、公平で公正に話し合って決めるところに模範性があった。
市民団体の様々なものが展示されている
杉本裕明氏撮影 転載禁止
寄本さんは、市民の側に立つだけの代弁者ではない。ここには市民との緊張関係があり、そうだからこそ、市から信頼されていた。
石黒さんも市民代表として参加した。どのような焼却炉なら公害を出さないのか。先進的な自治体の施設を見学したり、専門家の意見を聞いたりした。そこで有害な塩化水素の除去が大切だと知った。
当時の国の窒素酸化物の基準は430ppmで、武蔵野市は乾式で150ppmまで下げると提案していた。しかし、市民側の委員たちは納得しなかった。そこで、石黒さんらは、千葉県松戸市の焼却施設を見学した。
そこでは、湿式を採用していた。価格は高かったが、数値をさらに下げて運転されていた。さらに石黒さんは、メーカーからヒアリングし、25ppmまで落とせることを知った。結局、市もそれを受け入れた。
当然、コストに跳ね返るが、現在の清掃工場で採用されている管理値を先取りする選択だった。
縮小して1日190トンの施設に
炉の規模も、市民の意見が寄り切って決まった。市は人口が13万人から将来15万人に増えると予測し、1日210トン燃やせる炉を考えていた。「補助金が出るし、将来ごみが増えたら困る」というのが、市の言い分だった。
しかし、市民側の委員らは、「減量とリサイクルを進めればごみは増えず、大きな炉は必要ない」と主張し、交渉の結果、190トンに縮小することが決まった。さらに、周りを緑地で囲う「グリーンベルト」を造成することになった。
上田さんら市の担当者も、対等の立場で市民代表と激論を交わした。その審議の内容は、市の広報紙で市民に伝えられた。けれど、すべてがうまく運んだわけではない。
例えば煙突の色がそうだった。「緑町だから緑にしろ」「縦じまはだめだ。横じまにしろ」。こんな意見が飛び交った。上田さんは、「市民側は行政が白と言えば黒、黒といえば白という雰囲気があった。市は市役所の色に合わせて茶色系にしたかったが、工場は茶色、煙突は緑で決着するのに8か月もかかった。市民参加は時間がかかると知った」と振り返る。
運営協議会が第三者チェック
操業が始まると、周辺自治会とクリーンセンターでつくる運営協議会がチェックした。自治会と市で交わされた協定書には、運営協議会の組織や基準値を超えたときの対策、必要な場合に自治会が立ち入り調査して資料の公開を求めることができることなどがあった。
参加を拒否していた緑町3丁目の住民も、やがて運営協議会に参加するようになった。緑町3丁目の住民は、後の建て替え計画でも設置された委員会の委員に就任した。これまでのような反対一色の論はなくなり、委員は、どうまちづくりに生かすかという話を熱心に語った。
運営協議会は、2か月に1回、クリーンセンターの会議室に集まって、排ガス、焼却量、運転状況などを報告してもらった。焼却炉によるダイオキシン汚染が全国で問題になった時も協議会で対策を検討し、測定データをもとに施設の改造を決めた。
むさしのエコreゾートでは、熱中症予防声かけプロジェクトの展示も行われている
武蔵野市提供 転載禁止
ダイオキシンの測定データをめぐっては、全国のあちこちの自治体で、数値が隠蔽されたり、改ざんされる事件が頻発し、それが明るみになると、自治体は陳謝に追われた。それに比べて、ここではすべてのデータが公開され、運転状況もガラス張りだった。だからもめようもなかった。
協議会はだれでも傍聴でき、意見の言えるフランクな場だ。石黒さんは、「ごみゼロ連絡会」の事務局長を務めた。連絡会は、生ごみの堆肥化を進めたり、マイバックのキャンペーンをしたり、資源回収を進めたりするなどさまざまの活動団体で構成されている。
筆者にこう語った。
「行政の進める計画づくりに市民が参加することは責任も伴い大変だが、意見が反映されることで自分たちも市に要求するだけでなく何をしなければならないのかを知ることができる」
これまでの経験と交流がしっかり根付いている。
寄本教授の紛争防止の心得
寄本さんは、委員会の意義をこう評価している(ジュリスト744号)。
「よく『総論賛成、各論反対』と言われるが、しかし各論反対を非難したりそれでもってあきらめたりする前に、せっかく合意のとれた総論を生かすための、具体的な参加の仕組みや方法の開発こそが、まず問われなければならないのである」
「参加による合意形成は、その心地よい言葉のひびきとは裏腹に、参加者にとっても行政当局者にとってもそれこそ苦労が多くてしんどいうえに、時間も金もかかり、あれこれの犠牲を少なからず要するものだ」
「しかし、それを回避したり無視した用地や計画の決め方は必ずと言ってよいほど紛争をもたらし、しかもその解決には、参加型の対応に比べるもっと激しいいがみ合いや相手に対する不信感、ひいては不毛な苦労や挫折感を生じさせ、時間や経費の面でもどんなにか高いものについてきたことだろうか」
寄本さんは、その後、四街道市などで同様の実践に取り組んだ。市民の主張を理解しつつ、公平な立場を貫いた。武蔵野市の新クリーンセンターの建設の際は、委員長に就任し、その経験をフルに発揮した。その後、鬼籍に入られた時、多数の武蔵野市民がその死を悼んだ。
難題に立ち向かおうとした市役所の職員らと、専門家の立場からコーディネートする研究者。そして反対一辺倒でなく、熟議を重ねた賢明な市民。その三者のアンサンブルの結晶が、クリーンセンターだった。
コメント