旧クリーンセンターを利用した武蔵野ecoリゾート
杉本裕明氏撮影 転載禁止
東京都武蔵野市は、なぜ、ごみ焼却施設のクリーンセンターを住宅や商業施設の建ち並ぶ市役所隣に造ることができたのか――。発電だけでなく、隣の市役所や公共施設に蒸気供給するその姿は、カーボンニュートラル社会を目指す多くの自治体のお手本でもある。旧クリーンセンターが市民参加でできたことを生かし、廃止した施設はリノベーションされ、環境啓発施設「むさしのエコre(リ)ゾート」として市民活動の拠点となっている。
ジャーナリスト 杉本裕明
目次
清掃工場が環境啓発施設に生まれ変わった
旧クリーンセンターは、環境啓発施設「むさしのエコre(リ)ゾート」として生まれ変わっていた。新クリーンセンターのすぐ近くにある。老朽化による建て替えに伴い、旧施設の一部を改修して再利用が図られた。
市のホームページには、こう書かれている。
「クリーンセンターの市民参加の歴史を継承し、市民や市民団体、企業、関係機関、行政などが一緒に考え、学びあいながら、環境に配慮した行動をまち全体へと広げていくことを目指しています。地球温暖化を踏まえ、ごみをはじめ資源、エネルギー、緑、水循環、生物多様性など、環境について考え、学び、体験することができます」
焼却炉2号の片鱗が
杉本裕明氏撮影 転載禁止
中に足を踏み入れると、機械設備が撤去されたあとの工場のようで、見渡すと、多数の配管がむき出しで残されていた。「蒸気はここを通したのか」と、感慨がわいてくる。フロアは、3階建ての事務所の3階部分を減築し、プラットフォームの天窓はそのまま活かされ、意外に明るい。
昔のプラントが想像できる
杉本裕明氏撮影 転載禁止
左横の壁には、環境教育のための大型のスクリーンが備えてあった。さまざまなイベントがここで開催されるという。奥に「ものづくり工房」があった。子どもと大人が一緒に、廃材を利用して工作をしている。
環境市民団体の紹介が展示されている
杉本裕明氏撮影 転載禁止
手前のフロアには、様々な環境市民団体を紹介したパネルが掲げられ、チラシが置かれている。開館したのは2020年11月だが、しばらくの間、市民参加のもとで旧クリーンセンターが建設されるに至った経緯がパネル展示されていた。「その後、様々な市民団体が活動をパネル展示するようになったので、もとのパネルを撤去したが、機会を得て再掲することも考えたい」と担当者は話す。
市民参加の武蔵野方式とは
吉祥寺を擁し、すみたいまちの上位を誇る武蔵野市は、市民参加のまちとしても知られる。長い歴史の中で、それは市民のDNAとして根づいている。
長期計画はじめ、市の様々な計画づくりに市民が参画し、土台づくりからかかわる。市民の意見には違いがあり、対立することもあるが、しかし、市民が意見を出し合い、市の職員と意見を交わす。その経過を広く市民に知らせ、また、意見を求める。行政も意思決定過程を透明化し、市民に広く知ってもらうことで、結局は、行政の運営に市民の支持が得られるのである。そんな市民参加の象徴的存在が、旧クリーンセンターだった。
旧クリーンセンターが完成したのは、いまから38年前の1984年のことだった。市民参加方式で、焼却施設の立地から施設の内容、運営・管理まで決めたのは、東京都武蔵野市が全国初のケースだった。
いまでは、ごみ処理施設の立地場所や施設の内容を、自治体が一方的に決めるということがなくなり、それなりの情報が公開されている。
立地場所の選定も、計画段階から幾つかの候補地を挙げ、市民の入る委員会で絞り込み、比較考量まで行い、最後に自治体の決断で決めるケースが多い。かつては、ある日突然、自分の住居の近くに清掃工場が建設されることが発表され、反対運動が起きることがよくあったが、この武蔵野市のケースをお手本に、濃淡があるとはいえ、早い段階から情報を開示する流れが定着している。
クリーンセンターはこんな施設
武蔵野市は、全国の清掃工場のお手本となったのである。こんな施設だった。
旧市役所庁舎の北隣にある旧クリーンセンターに、高さ59メートル、淡い緑色のまだら模様の煙突がそびえる。1984年に完成した焼却施設は地上4階、地下2階。市役所と同じ薄茶色で落ち着いた雰囲気を感じさせていた。商業ビルや住宅が立ち並び、市役所の目の前にある焼却施設なんて、全国を探してもここしかない。
炉は3基で1日195トンの処理能力があり、粗大ごみを1日50トン破砕できる処理施設もある。敷地面積は17,000平方メートル。その周りを雑木林がベルト状に囲み、隣に運動場とテニスコートがある。
クリーンセンターができる前、武蔵野市は、三鷹市と武蔵野三鷹地区保健衛生組合(武三保組合)をつくり、三鷹市内の焼却施設で処理していた。代わりに武蔵野市内に伝染病院を設置すると約束してできた焼却施設だった。ところが、ごみが増え、周辺住民は騒音や悪臭、煙に悩まされ、71年についに入り口でピケをはり、武蔵野市からのごみの搬入を阻止した。
「ごみ戦争宣言」と多摩地域
71年といえば、東京都の美濃部亮吉知事が、都議会で「ごみ戦争」を宣言した年である。23区の家庭ごみを受け入れる清掃工場の建設は一向に進まない。大量の生ごみを江東区の夢の島に持ち込んだ都に、怒った江東区の住民が、道路にピケを張って、杉並区からのごみの搬入を阻止した。都は窮地に陥っていた。
美濃部都知事は、清掃工場の各区設置など、ごみ問題に徹底的に取り組むと「ごみ宣言」した。多摩地域の三鷹市の住民も、江東区の住民と同じ気持ちだったのだろう。
住民らは、武蔵野市に対し、「自区内処理」を要求した。「自区内処理」というのは、地域から出たごみは、その地域内で処理することを言う。普通、自治体がその単位になっている。
後藤喜八郎・武蔵野市長は73年5月、市内に処理施設(呼称・クリーンセンター)を造る方向で努力すると約束した。三鷹市との協議で完成を目指すことが決まった。ところが、その約束は守られなかった。
5年たち78年になっても状況は好転しなかった。怒った三鷹市の焼却場周辺の住民は、再度ピケを張り、搬入阻止に動いたのだった。
4候補地を提示
これに対し、後藤市長はその年の暮れ、焼却工場の候補地として都立小金井公園予定地、都立武蔵野中央公園予定地、市営総合グラウンド、市営プール用地の4候補地をあげた。そして、市営プール用地に絞ったことを明らかにした。ちなみに、市営総合グラウンドは、後にクリーンセンターが設置された場所だった。
翌年、市はごみ処理基本構想を発表した。市民参加方式で、よりよい施設を造ろうと呼びかけた。ただ、肝心の設置場所の選定で、予定地の住民は蚊帳の外に置かれていたから、彼らから不満の声が出たのも当然だった。
間もなく、予定地にある自治会に、「武蔵野市のゴミ問題を考える連絡会」が結成された。公団住宅の団地自治会は、団地の屋上から横断幕を掲げて抗議した。後に特別市民委員会のメンバーになる清水厚子さんは、「現代のごみ問題」(ぎょうせい)の中で、「一夜明けたら地元住民になっていた」と記している。
予定地の住民たちは不信感を募らせた
市は、地元住民にこんな説明をした。
- 公園予定地はすでに都市計画決定されていて短時間で決定を変えることは難しい。
- 市営総合グラウンドは地主から用地を買収するときにグラウンドにすることを前提に了解を得ており、買ってから変更すれば旧地主の反発を買うことは必至である。
- それに比べれば、市営プールは老朽化し、建て替えの時期にきている。
そう言われても、プールの周辺住民の不満はおさまらない。市は社会党と共産党による革新市政のもと、市民参加を標榜・実践していた。しかし、みんなが嫌がる迷惑施設のごみ処理施設の建設計画には、市民参加は含まれていなかった。
当時、後藤市長は部下にこう言っている。
「用地選定は市民参加になじまない。私が自分で決めてから市長をやめる。次の市長に責任を負わせないようにしたい」
「武蔵野百年史」(同編さん委員会)には、市民参加の歴史が書かれている。それによると、市民で作る「市民会議」が市に意見を提出し、それをもとに長期計画を策定したのが始まりだった。その後、市民委員会は「緑化市民委員会」「コミュニティー市民委員会」など項目ごとにでき、さまざまな提言を行うようになった。
市民員会は、市民運動家、学識経験者、関係団体それぞれ3人、計9人からなり、議員や行政の関係者は排除された。委員は市長が任命し、委員会は自主的に運営されていた。
そんな歴史がありながら、ごみ処理施設ではこの手法にならわなかったことから、市長は市民から厳しい批判を浴びた。
市長代わり、「用地選定は市民参加で」と新市長
プール跡地の案に対して、市議会に反対の請願や陳情が出されて、用地が決まらない。間もなく、後藤市長は引退し、79年に藤元政信新市長にバトンタッチした。
藤元市長は、「用地選定は市民参加で決定すべきだ。施設の内容や環境保全、還元施設など総合的な検討も必要。プール地を白紙撤回すると、反対を受けるたびに撤回しなければならなくなるので『凍結』としたい」との方針を表明した。
そして、ごみ減量や美化にかかわっていた「清掃対策市民委員会」に市民参加方式の具体案の検討を求めた。これまで、ごみ減量と分別収集に取り組んでいた「清掃対策市民委員会」は、市長の要請を受けて審議を始め、市民参加による検討方式の具体案を提案した。
その内容は、①クリーンセンターを81年3月までに造ることを目標とする、②市民参加で課題に取り組む、③関係当事者に現実的かつ柔軟な対応を要請する――の3点だった。
新しい検討委員会を作り、先の4候補地をそ上にのせ、多様な方法で市民の意見を集約することを目標とした。委員は、4候補地の周辺住民の代表、一般市民の代表、専門家から構成し、少数意見を尊重するとしていた。
そして、新委員会の要綱案をまとめ、市の広報紙に掲載し、意見を募った。市民2,000人にアンケートしたり、市民集会を各地で開いたりした。
クリーンセンター特別市民委員会の発足
当事者である市から距離を置いた市民組織をつくるとの提案に、4候補地の自治会代表も拒否する理由はなかった。「委員会に参加すれば自分たちの住む地域に決まるかもしれない」(委員)という不安を抱きながらも、住民たちは参加を決断した。
こうして「武蔵野市クリーンセンター特別市民委員会」が発足した。構成は4候補地の周辺住民が10人、一般市民12人、関係部門の専門家11人の計33人。委員長は環境アセスメントに詳しい内藤幸穂・前中央大教授。清掃市民委員会が関係団体などと相談して候補者をリストアップし、市長に推薦して決まった。
反対運動団体も委員会に委員を送る
プール地に反対する運動を展開していた連絡会からは清水さんら3人が入った。「よりよい場所によりよい施設を市民参加で」をスローガンに掲げた。
内藤さんは、土木工学が専門で、国のごみ関係の審議会の委員長をしていたことから、藤本市長に頼まれ引き受けた。「公平性を保つため」と言って、個別にどの住民団体、有力者、議員とも会わなかった。
担当主幹として市の事務局を担ったのが上田幸雄さん。三鷹市とつくった衛生組合が焼却炉を設置した際、機種の選定から設置まで中心的役割を担った人だ。せっかく施設を造りながら、武蔵野市のごみが追い出されたと知り、「新しい施設造りに参加したい」と上司に願い出た、変わり種の役人だった。
住民と交渉し、時には恨まれる損な役回りを、大抵の役人は嫌うものだ。当初、上田さんは「用地なんか議論して決まらない。むだな時間をかけず、市が責任を持って決めるべきだ」と市民参加に懐疑的だった。
けれども、議論が進むにつれて理解を示すようになり、市の幹部や議会を説得する役回りを担うことになる。
住民団体推薦で委員になった寄本勝美早大教授
住民側の推薦で入った学者に、早稲田大学の寄本勝美教授がいた。清水さんは、寄本さんの著書を読んだことをきっかけに、親交を深めていた。寄本さんは、ごみ行政に市民参加が必要だと主張し、反対派にも大きな影響を与えていた。
早稲田大学の行政学の研究者だが、ごみの現場を訪ねては、ごみ収集車の運転手や収集作業員など、現場の実態を作業員から聞き、住民の声も聞き、それを自治体の政策に生かそうとする「現場主義の学者」だった。
この寄本さんと市との出会いが、武蔵野市の市民参加を大きく前進させることになる。
(続く)
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