「仕事は1人でできない、だから助け合うんだ」と語る若生陽介さん。
杉本裕明氏撮影 転載禁止
リユース業の大手、浜屋(埼玉県)は、不要品回収業者が軽トラックで住宅街を回って市民から集めてきた不要品を買い取り、それをコンテナに詰めて東南アジアやアフリカ、中南米に輸出している。海外の人々は販売店で購入し、大切に使い続けている。
普通ならごみとして廃棄されてしまいかねない中古品が、途上国に渡ると新しい持ち主のもとで生き返る。資源循環社会づくりの一翼を担っているといえるリユースの世界をどんな人たちが担っているのか。浜屋の4つ支店とグループ会社を訪ねた。「リユースの請負人」たちは魅力あふれる心優しき人たちだった。出会った5人の物語をお伝えしたい。
ジャーナリスト 杉本裕明
朝から中古品を積んだトラックが列をつくる
浜屋の埼玉県・所沢支店(所沢市)は、浜屋の支店の中で一番取扱量が多い。朝10時には倉庫の前に中古家電などを積んだ軽トラックが列をつくる。黒色の作業服を着た社員らがきびきびと動き、あちこちであいさつの声が聞こえる。その社員17人を束ねるのが若生陽介支店長(39歳)。仕事は1人でできない。助け合うことの大切さを信条にする。
「腕相撲なら誰にも負けない」と笑顔で話す若生さんはデスクワークを切り上げると、仲間の社員の輪に入り、悩みや相談を受ける。店長というより頼りになる兄貴といった方がいいかもしれない。不要品回収業者のトラックの列に近寄って、窓越しに冗談を交わす。所沢支店はいつも笑い声が絶えない。
森林組合から浜屋に
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若生さんは宮城県黒川郡大郷町の農家出身。県立高校卒業後は仙台市にある仙台科学工業専門学校の土木学科に進んだ。卒業後はそれを生かす形で、黒川森林組合に就職した。
組合では、製材現場で、フォークリフトで材木を運んだりしていた。実家は13ヘクタールの水田と60頭の繁殖用の牛を飼っていた。若生さんは父母の仕事を手伝いながら、組合に通った。「実家から近いし、生活も安定して大きな不満はなかった」と若生さん。
転機が訪れたのは22歳の時。同郷で浜屋に勤めている知人に誘われた。「自分のいる仙台市店に空きができたんだ。やってみないか」。仙台支店(仙台市)に配属され、戸惑ったのは中古家電の重さ。しかし、半年ぐらいでコツを覚えると、仕事が面白くなった。
不要品回収業者が持ち込んだ中古家電を検品し、買い上げたあとは工場(倉庫)に移動し、最後はコンテナに積み込む。その作業は、単純にモノを扱っているようで、実は回収業者という「人」との関係性に深くかかわっている。
若生さんはその面白さに気づいた。「毎日違う人と会って話をし、刺激を受ける。どうやったら品質のいいものを仕入れるかを考える。変化と刺激があった」
1年半過ごした後、福島県の郡山支店(郡山市)の支店長に。といっても店長と社員1人のたった2人。でもそれが、心地よかったという。弟のような社員との会話はいつもはずみ、店長として責任をかぶる分、やりがいを感じた。数字だけでなく、社員が仕事を覚えて成長していく姿を見ることが、自分の喜びでもあると知った。
リーマンショックが襲った時の決断
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2009年暮れのリーマンショックが日本経済を襲った。浜屋も未曾有の危機に見舞われた。途上国からの注文が激減したのだ。それでも回収業者はリユース品を持ってくる。それを断ることは会社をたたむことになる。工場(倉庫)に在庫がどんどんたまった。
会社の苦渋の選択は支店網の縮小と社員の削減に手を付けることだった。郡山支店の閉鎖が決まった。本社から指示が来た。仙台支店か埼玉本店に戻ってほしいというのだ。部下の社員の処遇はまだ決まっていなかった。
若生さんが言った。
「誰かがやめなきゃいけないなら、僕が浜屋をやめます」
黒川町の実家にいったん戻ると、家業の農業を継いだ。両親はことのほか喜んだ。農業に充実感はある。
しかし、浜屋での体験を忘れることはできなかった。かつて浜屋に誘った知人から電話が来たのはその1年後。「もう1回やってくれないか」。リーマンショックの混乱が少し落ち着き、途上国の取引が回復の兆しを見せていた。心が揺れた。
相談した両親は、自分が納得できる道を選べばいいと言ってくれた。再び、仙台市店に復帰したのは2010年11月だった。
東北大震災が支店を襲う
「危ない!みんな外へ」。若生さんは大声を出した。11年3月11日。大地震が襲った。仙台市店の工場(倉庫)に積み上げた中古家電が崩れ落ち、事務所の中もめちゃめちゃになった。だが、けが人が出なかったのは不幸中の幸いである。
黒川町の実家から通っていた若生さんは、その前月に支店長になったばかり。電気も水も止まる中、復旧作業を急いだ。本社からも応援が来た。小林社長の指示のもと、石巻市に災害ボランティアを出すことが決まり、総勢20人の中に仙台市店からの2人もいた。
仙台市店が再開したのは4月1日。工場の前に次々と軽トラックが並んだ。「久しぶりだね」「来てくれたんだ」。若生さんと社員に熱いものがこみ上げた。実はそれからが大変だった。流されたり、廃棄物として保管されたりしていた大量の家電が、リユース品として支店に持ち込まれたのである。
社員とのコミュニケーションが大事
13年4月に所沢支店長になった若生さんは、毎日午前7時に出社する。事務所でパソコンを開き、メールをチェック。その後、現場に出て、その日の手順を確認して回る。
朝8時半から営業が開始され、社員らが検品を始める。店長として在庫を管理し、仕入れと売り上げのバランスに気を配る。
若生さんは従業員とのコミュニケーションを欠かさず、多くの時間を作業現場ですごす。うれしいことは何ですか?と、私に聞かれて、即座に出たのが、支店長に育ってくれることのひとことだった。
「実は所沢支店に来てから、3人の支店長を輩出しているのです。彼らが育って、こんどは若い社員を育てる立場になる。こんなにうれしいことはないじゃないですか」と、若生さんは言う。
この仕事は、まずは不要品回収業者さんと店員たちが信頼関係で結ばれることが大切である。回収業者さんたちは、トラックで住宅街を回って、市民から不要品を集めて回るのだが、多くの場合一人で事業を行っていることが多い。
かつては会社を経営していた人から、タクシーの運転手、営業マン、事務職、農家と多彩だ。苦労を重ねてきた人も多い。年の若い支店の社員に比べて、人生の酸いも甘いもかみ分けてきた人たちである。
どの中古品がどれぐらいの価値があるかをより分ける能力だけでなく、人の価値を値踏みする能力にも長けている。プライドも高い。「不用意な一言が嫌われ、二度と来なくなってしまった」と、しょげかえる社員もでてくる。こんな時が若生さんの出番である。人生の大先輩とつきあうには誠心誠意を見せるしかないのだと、若い社員たちを励ましている。
エリアマネジャーも兼ねる
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こうした経験を積み重ねた若生さんは、東エリアマネジャーの肩書も兼ねる。所沢支店のほか、埼玉支店(さいたま市)、川崎支店(川崎市)、横浜支店(横浜市)を管轄し、コミュニケーションをとって、支店長たちの相談に乗ったりしている。
若生さんは言う。「浜屋で学んだことは、仕事は1人でできない。みんなが協力し合ってできるんだということ。思いやりの心を失わず、苦労している仲間を見たら『手伝うよ』と一言声をかけるだけでいい。それが職場を和ませ、次につながる」。人間性にこだわり続けたいという。
こうして集まった大量の中古品は、彼らが磨き、ぴかぴかにしてコンテナに収納される。そして、大型のトレーラーが来て運び去っていく。
バイヤーを通して途上国の港に陸揚げされた中古品は、やがて販売店に引き取られ、店頭に並び、そして人々の家庭に収まっていく。「遠く離れてはいるが、俺たちの集めたリユース品が、家庭で大切に使われているんだ」。帰路につく車に優しいまなざしを送り、若生さんは、そんな家庭の風景をふと思い浮かべるのである。
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